どうもanjinです!
今日は歴史テーマで『ペリー来航』について書きます。多分、ほとんどの人が聞いたことがある名前だと思います。このペリー来航により、日本が開国へ向かい、幕末〜明治時代へと変わっていくことになります。
【ペリー来航とは】
ペリー来航(黒船来航)とは、嘉永6年(1853年)に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件です。
艦隊は江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入しました。結果として、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を許可し、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年には日米和親条約が締結されることになりました。
このペリー来航事件から明治維新までが、一般的に幕末と呼ばれています。
【ペリーについて】
ペリーは、1794年4月10日にアメリカのロードアイランド州ニューポートで生まれました。本名は「マシュー・カルブレイス・ペリー」です。
■1809年
14歳9か月という若さで士官候補生として、アメリカ海軍に入隊します。
士官候補生になるということは、ペリーは子供の頃から優秀だったことがわかります。
■1833年
ブルックリン海軍工廠の造船所長に就任します。
■1837年
海軍大佐に昇進します。
■1840年
ブルックリン海軍工廠司令官に就任し、代将になります。
ペリーは蒸気船を主力にすることを目指し、アメリカ初の蒸気軍艦を建造します。
このため「蒸気船海軍の父」と呼ばれました。
また海軍教育の先駆者でもあります。
■1852年
東インド艦隊司令長官に就任します。
日本に開国を求める大統領の親書を手渡す指令を受けます。
■1852年11月24日
日本に向けて出港します。
■1853年6月3日
日本・浦賀に入港します。
■1854年1月16日
横浜に2度目の来航します。
この1か月後に日本に開国を合意させました。
■1854年3月3日
日米和親条約締結します。
■1858年3月4日
ニューヨークで死去。享年63歳でした。
【ペリー来航の背景】
ペリーが訪れる以前、幕府は海外との交流を制限する、いわゆる「鎖国」政策を実施していました。しかし厳密にいうと、完全に禁じられていたわけではありません。幕府は直轄地として長崎を管理し、この地で中国やオランダとは貿易をしていました。そのほか対馬、松前、薩摩を通じて、朝鮮やアイヌ、琉球王国とも交易をおこなっています。
ところが18世紀の後半になると、オランダ以外の欧米各国も、市場拡大のために日本との通商を求めるようになります。このような動きに対して幕府は1825年に「異国船打払令」を発し、外国船を追い払う方針を掲げました。
しかし1842年、同じように欧米との通商に反発していた清が「アヘン戦争」でイギリスに敗れ、開国を余儀なくされます。欧米各国の圧力は強まり続けていました。
このような国際情勢のなかで、アメリカは日本を開国させることを目指し、ペリー来航以前から日本との接触を続けていたのです。実は1846年に東インド艦隊司令官のビッドルが、開国を求めて浦賀に来航しています。ビッドルの交渉は失敗に終わりますが、その反省からペリーは強硬手段を用いることを決定しています。その作戦は功を奏し、日本は開国することとなりました。
【ペリー来航の目的】
ペリーが来航した目的は、日本を開国するためでした。
その理由は以下の2点です。
- 捕鯨をするために寄港地が必要
- 中国大陸に進出するための補給基地確保
〈理由①:捕鯨をするために寄港地が必要〉
当時、産業革命による「燃料需要」に応えるため、クジラの乱獲が行われていました。
「鯨油」が目的だったのです。
石油の採掘が本格化される19世紀後半まで、鯨油はもっとも良質な燃料油と考えられていたのです。
日本が開国を求められていた当時、太平洋北部は世界でも有名な鯨の漁場として知られていました。
そのため、この地域での捕鯨拡大を望むアメリカは、拠点として日本に注目したのです。
1年以上の長い航海を行うことが普通でしたし、また、捕鯨船は船上で鯨油の抽出も行うため、大量の薪や水が必要でした。
こういった物資の補給地点として日本という場所が最適だったのです。
〈理由②:中国大陸に進出するための補給基地確保〉
当時のアメリカは、メキシコとの戦争で「カリフォルニア」を手に入れて、太平洋に面した港を手に入れていました。
そして、この頃アメリカでは1848年から始まった「ゴールドラッシュ」の影響で、太平洋沿岸へ大量の移民が流入。
こうして発展した西海岸を拠点に、太平洋航路を開拓して清との貿易に取り組もうとしていたのです。
当時の人口は日本が約3000万人だったのに比べ、清では約4億人、まさに巨大マーケットだったというわけです。
当時の世界最強国はイギリスで、イギリスに次ぐ大国がロシア、そして、フランスが続くといった状況でした。
日本が鎖国でも長年貿易を続けていたオランダは小国でした。また、アメリカも新興国・小国でした。
アジアに植民地を持っていなかったアメリカは、清への進出においてイギリスやフランス、オランダなどに遅れをとっていました。
この遅れを取り戻そうと、いまだオランダ以外が進出していない日本を目指したのです。
アメリカが清との貿易のために使っていたルートは「北太平洋から千島列島・津軽海峡」を経由して上海へ向かうというものでした。
そのため、寄港地・補給基地として「箱館」を開港してくれたら、都合がよかったのです。
【ペリー来航の反応と対応】
日本人の反応
ペリー率いる艦隊が浦賀に来航した時、日本人は初めて帆船以外である蒸気船を見ました。
日本人は帆以外に蒸気機関で動いており、煙を上げている様子からこの船を黒船と当時は呼んでいました。
そしてこの黒船は上陸に備えて勝手に江戸湾の測量を行う他、アメリカ独立記念日の祝砲や号令や合図の空砲を打っていました。
このことは事前に伝えられていましたが、江戸の町人は最初の空砲で砲撃と勘違いし大混乱しまいます。
しかし、空砲とわかると空砲が打たれるたびに花火の感覚で盛り上がり、ついには黒船により浦賀は見物人でいっぱい。勝手に小舟で黒船に乗船を試みようとする人も現れました。
しかし、この騒ぎを抑えるため幕府から警戒を促すお触れが出ると、実弾砲撃の噂と共に乗船を試みる人はいなくなりました。
幕府のペリーに対しての反応
ペリーが来航した翌日の7月9日幕府は船上にいるペリーに浦賀奉行所与力を派遣しました。
そこでペリーの目的が当時のアメリカ大統領フィルモアの親書を徳川家慶に渡すことだと理解します。
しかし、ペリーは与力の身分が低いことを理由に親書を渡しませんでした。
そして翌日に別の与力の香山栄左衛門がペリーの元へ行きましたが、対応は変わらず親書は渡しませんでした。
ペリーは与力しか自分の元へ寄越さない幕府に対して、親書を預けることに相応しい身分の者を寄越さないと兵を率いて将軍に直々に親書を渡すと脅しをかけるようになりました。
しかし、この時徳川家慶は病気により国の一大事を決めることの出来る状態ではありませんでした。
そこで老中首座の阿部正弘が徳川家慶の代わりとしてペリーの上陸を許しました。
ペリーの上陸後、ペリーと会見したのは浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道でした。二人は開国を促すフィルモア大統領の親書を受け取ります。
その後、徳川家慶が病気のため開国に関しての返答に1年の猶予が欲しいとペリーに言い、ペリーは一年後に再来航することを告げ、アメリカには戻らず香港へ戻っていきました。
【ペリー再来航 (日米和親条約の締結)】
嘉永7年(1854年)1月16日、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航しました。幕府との取り決めは1年後だったが、半年後となったのは、ペリーは香港で将軍家慶の死去を知ったために国政の混乱の隙を突こうという外交手腕からです。
その後、帆船の輸送艦サザンプトン号を皮切りに、蒸気外輪フリゲートの旗艦サスケハナ号、帆走スループのミシシッピ号、ポーハタン号、マセドニアン号、ヴァンダリア号、帆走補給艦レキシントン号、帆走スループ船サラトガ号、帆走補給艦サプライ号が到着しました。
計9隻の艦隊が江戸湾に集結、見物人も大勢押し掛け、船を出してアメリカ人と接触する日本人もいたということです。
まず、アメリカ側を応接する場所の折衝が行われ、場所が横浜と決まり応接所が完成したのちに、3月8日、アメリカ側の総勢446人が横浜に上陸しました。アメリカ側はフランス料理をふるまって歓迎、日本側も本膳料理で答礼しました。
そして横浜応接所で、日本側全権・応接掛(特命全権大使)に任命された林復斎を中心に交渉が行われ、約1か月にわたる協議の末、全12か条の日米和親条約(神奈川条約)が締結、3代将軍徳川家光以来200年以上続いた鎖国が解かれ事実上の開国となりました。
この直後の4月25日、吉田松陰が金子重之輔とともに密航を企てポーハタン号に接触しましたが、渡航は拒否されて下田奉行所に自首し投獄されてしまいます。
ペリーはその後の4月下旬に箱館港に視察のため入港、松前藩家老格の松前勘解由に対して箱館港に関する取り決めを求めたが、権限がないとして拒絶されます。そして5月に伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺で、和親条約の細則を定めた全13か条の下田条約を締結しました。
【日米和親条約と日米修好通商条約】
ペリー来航後、幕府はアメリカとの間に2つの条約を結んでいます。それが1854年に結ばれた「日米和親条約」と、1858年に結ばれた「日米修好通商条約」です。
それぞれの条約について簡単に紹介すると、まず「日米和親条約」では伊豆半島の下田と、北海道の箱館の開港が決定されています。ただしこの時点では貿易は認められておらず、この2港で食料、石炭などの補給のみおこなうことができました。
この後、アメリカは日本との通商も要求するようになります。「日米和親条約」の締結後、駐日領事として来日したハリスは強硬に貿易の開始を要求しました。そして、新たに「日米修好通商条約」が結ばれることとなるのです。
「日米修好通商条約」を締結した結果、下田を閉じる代わりに新たに神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港が決定し、開港地には外国人居留地が設置されることとなりました。またその後オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結び、日本は本格的に海外との交易に従事するようになります。
「日米和親条約」と「日米修好通商条約」の問題点は、この2つの条約が、日本にとって不利な「不平等条約」だったことです。「日米和親条約」には「片務的最恵国待遇の承認」、「日米修好通商条約」には「領事裁判権の承認」と「関税自主権の喪失」という不平等条約が含まれました。その結果、開国にともない日本社会は大きく混乱します。「安政の大獄」や「尊王攘夷運動」、「明治維新」に至る大きな社会変動が生じることとなりました。
【まとめ】
ペリー来航の日本へ与えた影響は非常に大きく、日本の歴史を変える重要な転換点として、教科書にも必ず掲載される事柄となっています。
当時、初めて見る黒船に為政者だけでなく民衆も強い関心を抱いていました。
こうした民衆の国際情勢に対する関心の高さが、江戸幕府を倒し、『明治維新』という大きな社会変動を後押しするエネルギーに繋がったのかもしれません。
【参考書籍】
本日のテーマは以上になります。ご覧頂き、ありがとうごさいました!
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