【歴史】ビジネス教養 〈天保の改革〉

歴史

どうもanjinです!

今日は歴史分野における『天保の改革』を解説します。前々回から江戸時代の三大改革を取り上げてますが、今回は三大改革最後の『天保の改革』になります。

【天保の改革とは】

天保の改革とは、江戸時代後半の1841年から1843年にかけて、老中の水野忠邦がおこなった一連の政策のことです。

天保の改革は、古き良き、強い徳川時代の復古を目指したもので、過去の江戸時代の改革、享保の改革、寛政の改革を踏襲したものでした。

水野忠邦は、過去の改革に共通する点は、『財政改革』であり、その財政を立て直すための術としては、農業と倹約であると考えました。

【水野忠邦について】

1794年6月23日、水野忠邦は、唐津藩(現在の佐賀県)の3代藩主の次男として生まれました。兄が早くに亡くなったため、跡取りとなり家督を相続しました。

1817年、唐津から浜松藩へ領地を移しました。これを「転封」といいます。同年に寺社奉行兼任となったことで、幕府の重臣となりました。

その後、徳川11代将軍・家斉のもとで活躍していきました。

1825年に大坂城代

1826年に京都所司代

1828年に西の丸老中

1834年に本丸老中

1839年に老中首座

1841年に11代将軍・家斉が亡くなった後、「天保の改革」にとりかかります。

上知令(土地没収の命令)を強行しようとしたため、大名・旗本の反対にあいました。その結果、老中をクビになり、失脚してしまいます。

一旦、老中をはずされた水野忠邦でしたが、後任の老中が将軍家慶の怒りを買ったことで、水野忠邦は老中に再び任命されました。

しかし、とくに重要な任務もなかったので、そこまで活躍することはありませんでした。

翌年の1845年には「天保の改革」時代の不手際が目立つようになってきて、水野忠邦は隠居・謹慎が命じられました。

その後まもなく、山形藩に懲罰的転封を命じられました。

6年後の1851年に、病気により死去しました。

 

【天保の改革が起きた背景】

江戸時代も終盤のこのころは、変化の時期でもあり、徐々に従来の政治が通じなくなっていく動揺の時期でもありました。

度重なる天災や飢饉によって米の価格が高騰し、一般庶民の不満がたまっていきます。全国各地で百姓一揆が発生し、都市部の下層民による打ちこわしも頻繁に起きていました。

11代将軍の徳川家斉は、奔放な政治を展開したため、幕府のモラルが緩み、財政赤字が増えていきます。

対外的にも欧米からの接触が徐々に増えはじめ、1824年に大津浜事件、1828年にシーボルト事件、1837年にアメリカ船が日本近海に出没するモリソン号事件という緊急事態が続きます。

また、1842年にアヘン戦争で清がイギリスに負けたという事実も幕府に衝撃を与えていました。

このような状況で、政治の動揺を落ち着かせつつ財政を改善する必要がありました。

【天保の改革の具体的政策】

〈人事改革〉

家斉時代の幕府では賄賂が普通に行われており、風紀は乱れ始めていました。

そこで水野忠邦は賄賂をした役人や改革に反対している幕府の役人を追放していきます。

代わりに遠山景元(遠山の金さん)、鳥居耀蔵、江川英龍が幕府の役人に採用されます。

〈人返し令〉

天保の改革は農業を重視している改革でした。

この頃の幕府の収入源はおもに幕府領(天領)の農村からの年貢です。

しかし、貨幣の統一や流通、副業で育てた商品を売るなどで、全国各地の農村から江戸や大坂などのへ出ていく人が増えていきます。

江戸や大坂などに農民たちが行くことによって江戸の人口が増えていき、逆に農村の人口が減っていきます。そのせいで幕府がとる年貢の量が減ってしまい、幕府の赤字に繋がっていきます。

その対策として、水野忠邦は『人返し令』を発令します。

人返し令とは、江戸に住んでいた農村出身者を強制的に農村に帰ってもらう法律のことです。

この人返し令は同じく江戸三大改革の1つである寛政の改革の時にも行われていましたが、寛政の改革の時は農村に帰るのは自由となっていました。

〈株仲間解散令〉

忠邦は、株仲間を解散させ経済の自由化を促進して、高騰した物価を安定させようとしましたが、株仲間が中心に構成されていた流通システムを混乱させて逆に景気の低下を招くことになりました。

尚、このときに株仲間の解散を諌めたからか、のちに鳥居耀蔵に無実の罪を着せられて罷免、永預されることになります。

〈軍制改革〉

当時幕府は異国船打払令というとにかく外国船は打ち払う方針を取っていました。

モリソン号事件もこの方針によるものです。

しかし、1842年にアヘン戦争でかつて眠れる獅子と恐れられてきた清がイギリスに完敗したことを受けて、幕府は従来の異国船打払令をやめ新たに『薪水給与令』を出し、日本にやってきた外国船には薪などの燃料や水、食料を与えることにしました。

〈倹約令〉

天保の改革では家斉の時代の化政文化を代表とする派手な生活を庶民にやめさせようと倹約令を出します。

この結果、贅沢は禁止され、絹などの高価な着物はきれなくなり落語の寄席は閉鎖されます。

さらに歌舞伎役者も江戸から追放して化政文化は終わりを迎えました。

〈上知令〉

上知とは、幕府が大名、旗本の知行地を行政の必要などから没収し、代わりの土地を与えることです。

忠邦は、江戸や大阪の周辺を幕府の直轄地として、幕領より貢租の高い私領と交換しての財政強化し、江戸、大坂を中心に経済基盤を再統一することで幕府の行政機構を強化するつもりでした。

大名や旗本が大反対、3代将軍家光の武断政治の頃ならば通用してような法令と揶揄され、信頼されていた将軍家慶からも撤回を言い渡されたということで頓挫しました。

上知令は天保の改革の切り札となるはずが、鳥居耀蔵が忠邦の反対派に寝返ったことで、1843年、忠邦失脚のきっかけとなりました。



【天保の改革の結果と影響】

天保の改革が行われた時期には、もうすでに幕府の権威の衰えが見え隠れしていた頃でした。

財政面だけでなく行政面なども問題点が多くあり、また大奥の改革への妨害や、忠邦が改革を急ぎすぎ多くの法令を出しすぎた結果、社会が混乱しただけで失敗に終わりました。

忠邦の失脚後、すぐに株仲間が再興されました。商業資本に幕府の力が通じず、政策を貫徹できなかった悪しき先例となり、ますます幕府が衰退することとなりました。

天保の改革と同時期に、長州藩や薩摩藩、肥前佐賀藩なども各々が国情に応じた改革を行い成功しています。各藩の財政は改善されて、幕末に雄藩と言われるほどの力を得て明治維新に活躍することになります。

【まとめ】

江戸の三大改革は享保の改革に始まり、それを参考にした寛政の改革、さらにその二つを参考にした天保の改革へと続きました。

結果的に成功したのは、最初の享保の改革だけでした。

天保の改革は江戸後半期だったこともあり、国内の混乱も徐々に大きくなっていった頃です。

そんな時代に財政を建て直し、国内の混乱を収めるというのは簡単なことではなかったのだと思います。

 

【参考書籍】


天保改革と印旛沼普請 (同成社江戸時代史叢書)

 

以上が本日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうごさいました!

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