【歴史】ビジネス教養 〈自由民間運動〉

歴史

どうもanjinです!

今日は歴史分野の『自由民間運動』について書きます。自由民間運動は、聞いたことがある人が多いと思います。しかし、具体的に何が起きたのかを知らない人もいると思うので、具体的な内容を解説していきます。

【自由民間運動とは】

自由民権運動とは、『明治時代の日本で行われた国民の自由と権利を求めた政治運動のこと』です

「自由と権利」というのは抽象的なので、具体的に言うと、『議会政治の実現』を目指しました。

「議会政治」とは、選挙で選ばれた国民の代表者が「国会」と言う場所で法律を作ったり、予算をくんだりというような国政を行うことを言います。

当時の明治政府の体制である藩閥政治に対して批判し、国民の政治参加や国会開設、立憲政体などを要求しました。

 

【自由民間運動が起こった背景】

明治政府が目指したのは『日本の近代化』です。

そのため武士の力は必要とされず、江戸時代まで日本の主役に立っていた武士達は特権を失い、徐々に居場所を失っていきました。当然武士達は明治政府に反発、いつしか彼らは「不平士族」と呼ばれるようになって各地で暴動を起こすようになります。

明治六年の政変で明治政府を去った西郷隆盛らはそんな不平士族にとって希望となり、のちに反乱を起こします。江藤新平は佐賀の乱、西郷隆盛は西南戦争を引き起こして明治政府と戦いますが、ただ板垣退助はそれとは異なり、武力ではなく言論によって明治政府に訴えを起こします

それが1874年の『民撰議院設立建白書』であり、分かりやすく言えば明治政府に対する民選の議会開設を要望した建白書です。要するに政治は国民が選んだ議員によって進めるべきとの申し入れで、建白書とは臣下が主君や上官に対して意見を記した文書を提出することを意味する言葉です。

 

 

【板垣退助について】

板垣退助は土佐藩出身者で、日本の民主主義の発展におおきく影響力をおよぼした人物の1人です。

江戸時代には西郷隆盛や大久保利通らと同盟を結び、戊辰戦争では新政府軍側として奮闘しました。そして廃藩置県(1871年)以降、明治政府のメインは薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通と長州藩の木戸孝允、サブとして土佐藩の板垣退助、肥前藩の大隈重信という薩長土肥の出身者によって明治政府は構成され、良くも悪くも薩長の思いのままの政治体制でした。

しかし、1873年の征韓論によって大久保利通らと対立し、意見が受け入れられなかった板垣退助は西郷隆盛とともに政府から去りました。

土佐に戻った板垣は立志社を創設し、「民撰議院設立の建白書」を政府に提出し、自由民権運動を主導していきます。 彼は演説会を積極的に行い、日本各地で自由や権利について人々にかみ砕いて説明して回りました。この演説会によって、自由民権の結社数は2000を超えました。

演説中に板垣が暴漢に襲われたときに発言したとされる、「我死スルトモ自由ハ死セン」という言葉はあまりにも有名です。実際にこの言葉を叫んだのか明確ではありませんが、それでも世間に広まるのですから、いかに自由民権運動に命をかけていたのかいうことが理解できます。

自由民権運動の主導者であり、民衆の立場にたつ政治家として自由民権運動衰退後も、第2次伊藤内閣、第1次大隈内閣の内務大臣を務め、1900年に政界を引退しました。

【自由民間運動における年表】

1874年1月

板垣退助、愛国公党設立。『民撰議院設立の建白書』を提出。

1874年4月

板垣退助、高知で立志社を立ち上げる。立志社の初代トップは片岡健吉。

1875年1月

大阪会議

板垣退助が明治政府のトップである大久保利通と会合。国会開設について口約束を得ます。

1875年2月

板垣退助、愛国社を設立する。

各地の民権運動組織を束ねる組織として設立する。愛国社の設立により、全国が一致団結した自由民権運動が可能となる。

1875年4月

漸次立憲政体樹立の詔

憲法制定に向けた天皇の宣言。国会開設の話がなく、板垣退助は失望。

1875年6月

讒謗律新聞紙条例が制定

1877年

西南戦争が起こる。西南戦争に関与したとして愛国社、立志社は解散に追い込まれる。

立志社は解散前に、国会開設を政府に要求する『立志社建白』を提出するも政府に無視される。

1878年

愛国社が復活する

1880年3月

愛国社を国会期成同盟へ変更する

国会開設に向けて政府に大量の著名を集めた意見書を提出するが無視される。

1880年4月

集会条例が制定

1881年

政府の汚職事件(北海道開拓使官有物払い下げ事件

自由民権運動がその政府に攻勢をかける。汚職をめぐって内部分裂していた明治政府は自由民権運動に対抗できず、運動を和らげるため国会開設を検討。

1881年10月

国会開設の勅諭

1890年に国会が開設されることが確定。板垣退助は、将来の国会開設に向けて政党の自由党を設立。

同時に政府分裂の原因の一人だった大隈重信が政府から追放される(明治十四年の政変

1884年10月

自由党、内部分裂により解散

同時期、自由民権運動で最大となる暴動(秩父事件)が起こる。

1887年

民権派による三大事件建白運動が起こる

政府の外交の失敗を機に民権派の政府批判が強まる。政府は保安条例を出して、民権派と東京から追放。

1889年

大日本帝国憲法、完成する。

国会は設けられたが、その権限には強い制限がある。

1890年

日本初の国会が開かれる

自由民権派は立憲自由党を設立し、国会討論に臨む。

 



 

【自由民権運動の流れ】

自由民権運動は、大きく分けて3つの流れに分けることができます。

第一次自由民権運動:士族民権

自由民権運動は徐々に激化していき、今の日本の政治の礎の一つとなっていきますが、この運動は実は武力臭が非常に強いものでもありました。

当時の日本は、戊辰戦争が終わり、新政府となり落ち着いてはいたものの、それに納得出来ない人たちも多くいました。急激に武士が不要になっていった時期です。その、武士の不満を一手に担い、反乱を起こしたのが有名な西南戦争です。自由民権運動の支持者や協力者もこの古い時代の武士たちでした。

この頃の言葉では「士族」といい、彼らが中心となっていたことを「士族民権」と言います。士族たちは武力蜂起しかできなかったので、武力闘争になっていってしまったわけです。これは、西南戦争あたりまで続きます。皆の不満を抱えたまま西郷さんは矢面に立ったわけです。

 

第二次自由民権運動:豪農民権

次に、農村部の豪族たちが反乱を起こします。当時の言い方では「豪農」という呼び方をします。

これは地租改正に端を発するものですが、簡単に言うと豪族たちの土地を国有にしようとしました。当然豪族たちは反対します。そこで自由民権運動の主旨のひとつである、言論の自由などを求め自由民権運動が豪農達によって広まっていくわけです。この頃の自由民権運動は、「豪農民権」と言います。武士は西郷に賭け、農民や一般市民などは板垣に助けを求めたました。

第三次自由民権運動:大同団結運動

さらに、自由民権運動各派が帝国議会の設立を求めた「大同団結運動」が起こります。

帝国議会は、大日本帝国憲法(明治憲法)発布から日本国憲法への改正まで設置されていた日本の議会であり、公選の衆議院と非公選の貴族院から成ります。ちなみにこの議会は、約60年に渡り機能していきます。現在の国会の基礎となってもいます。

 

【まとめ】

自由民権運動とは政府を去った板垣退助らを中心に憲法の制定や国会開設を求める運動です。

しかし、不況時には自由民権運動も激化して暴力による事件も起きてしまいました。

私たちが当たり前のように思っている、憲法、国会、人権はこういった運動の結果により成立したものになります。

 

【参考書籍】


自由民権運動の系譜―近代日本の言論の力 (歴史文化ライブラリー)

 

以上が本日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうございました!

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