【歴史】ビジネス教養〈文明開化〉

歴史

どうもanjinです!

今日は、歴史分野の『文明開化』について書きます。日本史を勉強した方は、明治時代で必ず習うテーマですね。江戸時代までと何が大きく変わったのか、解説していきます。

 

【文明開化とは】

文明開化とは、簡単に言えば『明治時代に起こった西洋化ブームのこと』です日本の伝統を否定し、何でも西洋化しようとする現象のことを指します。

江戸幕府が倒れた後、明治新政府のもとで西洋の文明を積極的に取り入れ、従来の制度や習俗が大きく変化しました。

旧来の制度が一新されたという意味では「明治維新」と同じように用いられることもありますが、実際は意味が異なります。

明治維新」が五箇条の御誓文や廃藩置県、地租改正など政治的な改革を指すのに対し、文明開化」は服装や建築、教育、料理など主に生活に関する変化を指す言葉です。

「文明開化」という単語自体は、福沢諭吉が1875年に発表した『文明論之概略』のなかで「civilization」の日本語訳として用いたことで広まりました。

【文明開化で流行った言葉】

「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」

文明開化は日本人の伝統的な生活を一転させます。そんな変化をうたったさまざまな流行語が登場します。有名なものに「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」があります。ちょんまげを切った頭のことを表した流行語です。

明治4年(1871年)8月、政府は「散髪脱刀令」を布告して断髪を許し、奨励しました。上記の「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という詞は、同年5月『新聞雑誌』第2号に掲載されて流行したものです。

すすんで断髪し、いわゆる“散切り頭”にする者が増える一方、髷に執着する者も多くありました。明治6年3月に明治天皇が断髪をしたことで庶民の断髪に拍車がかかりますが、ちょん髷姿が完全になくなるには、もう少し時間がかかったようです。

「牛鍋食わぬは開化不進奴」

牛鍋食わぬは開化不進奴」は牛鍋という新しい食文化に関連する流行語です。牛鍋を食わないとは、とんでもない時代遅れな奴だという意味です。江戸末期から明治時代にかけて活躍した戯曲家である仮名垣魯文の『安愚楽鍋』のなかに登場しました。

牛鍋が文明開化のシンボルであったことには、ちゃんとした理由があります。日本では、天武天皇が肉食禁止令を出してから肉を食べることを禁止していました実際はこっそり食べていたようですが、公的には肉を食べる習慣が長らくありませんでした。それが明治時代に解禁され、文明開化の政策により公的に推奨されたのです実は「スキヤキ」と言う呼び名は、江戸時代に庶民がこっそり食べていたメニュー名でした。

 

【文明開化による思想の変化】

文明開化の風潮とともに思想界も活発化します。

人間の自由·権利や個人の自立を尊重する欧米の新しい自由主義·功利主義の思想・学問やそれに基づく政治制度・経済組織・法律などの新知識が啓蒙思想家たちによって紹介され、世に受け入れられるようになりました。

福沢諭吉は『学問のすゝめ』を書いて、人は生まれながらに貴賤の別があるのではなく、学問を学んで、封建的な身分意識を打破すべきこと自主・自由の精神に基づく個人の独立が一国の独立を支えるものであることを説きました。同書は初編から17編までつぎつぎに出版されたが、その発行部数は明治13年(1880年)までに約70万部に達するという驚異的なベストセラーとなりました。また、福沢は『文明論之概略』を著して、人間の智徳の進歩が文明を進める大きな力であることを唱えた。こうした福沢の思想は、新しい時代のなかで、青年たちに大きな影響を与えることになります。

加藤弘之は、幕末の文久年間に『隣草』を書いて西洋の立憲政治について紹介し、その採用による改革を主張しました。維新後も引き続き『立憲政体略』『真政大意』『国体新論』を書いて、立憲政治の知識を広め、天賦人権論 を紹介した。しかし、1880年代に入ると社会進化論の立場に立って天賦人権論を否定するようになります

中村正直は『西国立志編』『自由之理』を翻訳して、自由主義、功利主義の思想を伝えました。

西周は、津田真道らとともに幕末に幕府の留学生の一人としてヨーロッパに学び、明治初期には哲学や論理学などの著作を著しました。

津田真道は万国公法(国際法)や法律学を学んで、こうした分野の著作活動にあたり出版の自由、廃娼、国会の早期設立などを唱えました。

中江兆民は、岩倉使節団に同行してフランスに留学して、帰国後、急進的な自由主義の思想家ルソーの「社会契約論」を抄訳して『民約訳解』と題して公刊し、人間の自由と平等の思想を広め、自由民権運動の発展に影響を与えました。

田口卯吉は、文明の発展という文明史観の立場から『日本開化小史』を書いて、新しい歴史の見方を世に示しました。

こうした啓蒙思想家たちが集まったのは、明治6年(1873年)、森有礼の提案により西洋の学会にならって結成されたのが『明六社』になります。

 

【文明開化により変わったもの】

〈太陽暦の採用〉

文明開化において、国民に最も大きな影響を与えたのは政府が太陽暦を採用したことです。 それまでは、月の満ち欠けをもとにした太陰暦が使われていました。

太陰暦は、旧暦とも言われ今でも私たちの生活に残っているものがあります。 八十八夜とか、ニ百十日などです。

しかし太陰暦には、不便なことがあります。 実際の季節と、暦の月日があわなくなってくることです。 そのくるいを治すために度々、閏月がおかれます。

そのために、一年が22か月になるのです。 例えば、1868年(明治元年) には四月が二度、1870年(明治三年) には10月が2度ありました。

すでに、ヨーロッパやアメリカでは太陽暦を使っているのに日本だけが違った暦を使っているのでは外国との付き合いが盛んになった明治の世には、とても不便なものでした。

〈服装の変化〉

服装は、従来の和服から洋服に変化しました。皇室や政府要人の正装を洋服にするところから始まり、軍人や駅員、郵便局員などの制服も洋服になります。やがて一般庶民にも受け入れられるようになり、1878年には「束帯などの和装は祭服とし、洋装を正装とすること」が法律で定められました。

1881年には、政府高官が公的な場に夫人をともなう場合は、洋装とする旨が通達されました。それまでの日本は公的な場に家族を連れていくことはありませんでしたが、西洋式のパーティーでは夫人同伴がセオリーだったのです。

ただドレスなどは高級だったため、洋服が女性の間で一般的になるのはもう少し後のこと。その代わりに、「袴にブーツ」「和服の上にコート」など和洋折衷のスタイルが生まれました。

〈教育制度の発達〉

近代化を有効に進めるためには、国民の知識の水準を高めることが必要でした。そこで、政府は国民の啓蒙・開明化に力を注ぎました。

その手初めとして、欧米の近代的な学校教育制度の採用をはかり、明治4(1871年)年、教育行政を担当する文部省を設置し、ついで翌明治5(1872年)年、学制を公布して、男女を間わす国民各自が身を立て、智を開き、産を治めるために学間が必要であるとする、一種の功利主義的教育観に立脚する国民教育の建設につとめました。

その結果、全国に2万校以上の小学校が設立され、学校教育が急速に広まりました。学校教育の急速な普及は、江戸時代の寺子屋における庶民教育があったからです。 こうして明治8(1875年)には男子の小学校就学率は50%を超えました。しかし、女子は20%以下となり、男女の初等教育の間に、まだ大きな格差があったことは否定できません。

また、農村では貴重な労働力である児童の通学に反対する声もあり、授業料や学校設立費の負担も軽くはなかったので、小学校の廃止を求める農民一揆がおこった地域もありました。

〈鉄道の発展〉

江戸時代における交通といえばいわゆる五街道を中心とした街道を徒歩や駕籠などを使って移動するしかありませんでした。しかし、ヨーロッパでは文明開化が起こるちょっと前に産業革命が起こったことによって蒸気による移動手段が開発されました。それこそがいわゆる蒸気機関車だったのです。

日本でおける最初の鉄道は明治5年に新橋〜横浜間(今の東海道本線)でした。今でこそこの区間はたくさんの人が何事も感じなく乗り降りしていますが、開業当時では興奮とトラブルが続出しました。蒸気機関車だったこともあって蒸気船と区別するために陸蒸気と呼ばれる一方で、駅のホームで下駄を脱いで乗車する・運賃が高い(今の価格で3万円ほど)・電車の中でトイレがないなどいろいろなトラブルが多発するなど困ったことも多かったみたいです。

しかし、一気に大量の人員を運ぶ鉄道は利用客から見ても、経営者から見ても魅力的だったようで鉄道が初めて日本で走ってから20年後には日本中に普及します。明治五大私鉄(日本鉄道・山陽鉄道・関西鉄道・九州鉄道・北海道炭礦鉄道)と呼ばれる明治時代における私鉄の発展もあって明治時代終わり頃には日本全国に鉄道網が拡大して今の鉄道大国日本へと繋がっていきました。

〈建築様式の西洋化〉

文明開化により日本の建築の近代化が推進されます。レンガ造りなど西洋風の建物が増えました。有名なものが鹿鳴館です。日本の外務卿である井上馨の方針により建設された西洋館です。ここで国賓や外交官など海外の要人が接待されました。

銀座などにあるデパートの先駆けとなる西洋風の建物もこの時期に建てられ始めています。東京駅の丸の内にあるレンガの駅舎も同様。それと合わせてガス灯がともされるようになり、日本の風景が変化していきます。

また、お雇い人として来日した建築家によって設計された「洋風建築」も取り入れられました。

レンガを使用した本格的な建物は、政府関連の施設を中心に、当時多くの外国人を迎え入れていた、首都・東京に建設されました。

欧米並みの近代国家であることを内外に印象付けるという思惑があったといわれています。当時要人たちの社交場として賑わった、前述の『鹿鳴館』や今なお当時の面影に触れることができる神田駿河台の正教会大聖堂、通称『ニコライ堂』などが、この様式の建物として挙げられます。

また『鹿鳴館』の設計を手がけたイギリス人建築家のジョサイア・コンドルは、多くの日本人建築家を育てたことでも有名です。彼の元で学んだ日本人建築家の一人、辰野金吾が設計した『東京駅』や『日本銀行』も、この様式の建築物として名を連ねています。

さらに、日本人の大工や左官職人がそれぞれの意匠や工法を駆使して、見よう見まねで西洋風の建物を手がけた「擬洋風建築」も造り出されました。

木造なのに石造りに見える外観や瓦ののった洋風の三角屋根といった、和洋折衷のユニークな佇まいが特徴です。

都市部だけではなく地方にも数多く設計されました。現存のものとしては、福島県郡山市の『開成館』や新潟市の『新潟県議会旧議事堂』などが挙げられます。

残念ながら明治期を偲ぶことができた多くの建築物は老朽などから取り壊されてしまったり、戦争や自然災害によって倒壊してしまったりして、現存のものは数少なくなっています。全国各地に残された当時の建築物は文化財に指定されるなどして、大切に保存されています。



【まとめ】

「文明開化」というと、鹿鳴館のような西洋風の建物のなかで日本人が洋装でダンスをしているイメージが強いと思います。

しかし、ここで重要なのは、「文明開化」による富国強兵・脱亜入欧のようなスローガンと共に、日本は軍事力を増していったことです。

これが、その後の日清戦争、日露戦争に向かいアジア植民地政策につながっていくのです。広い視野から「文明開化」を見ていくと、日本の近代史の始まりが見えてきます。

 

【参考書籍】


衣食住にみる日本人の歴史〈4〉江戸時代~明治時代―江戸市民の暮らしと文明開化

 

以上が本日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうございました!

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