どうもanjinです!
今日は歴史テーマで『関ヶ原の戦い』を取り上げます。皆さん、ほとんど知っている有名な戦いと思います。天下分け目の戦いとも言われますが、基本的な部分から解説していきます!
【関ヶ原の戦いとは】
関ヶ原の戦いとは、石田三成らが、家康をたおそうとして1600年に起こした戦いです。
1598年の豊臣秀吉の死後、徳川家康の勢力が強まってくると、石田三成ら秀吉につかえた武将たちは、豊臣政権のゆくすえを憂い、家康をたおそうとして1600年に戦いを起こしました。全国の大名が、徳川方の東軍と豊臣方の西軍とに分かれて戦ったことから、「天下分け目の戦い」とよばれています。
両軍あわせて18万あまりの兵が激突し、徳川方が勝ちました。この戦いの勝利によって、家康は、秀吉の子の秀頼を一大名の地位におとし、天下の実権をにぎりました。
【関ヶ原の戦いが起こった背景】
そもそも、何故、関ヶ原の戦いはなぜ起こったのでしょうか。
そのきっかけは、豊臣秀吉の死去にさかのぼります。秀吉の死後、その子供である豊臣秀頼がまだ幼かったため、石田三成を中心にした「五奉行」と徳川家康を中心にした「五大老」という二つのグループによって政治が行われるようになります。
このグループの中で一番力を持っていた徳川家康は、天下を取るために行動を開始します。
例えば、有力な武将たちと政略結婚を繰り返したり、秀吉の親戚で戦いが得意だった加藤清正や福島正則といった「武断派」と、三成や大谷吉継ら「文治派」の対立を利用し、自分の味方を増やしたりしました。
これに危機感を募らせた石田三成は、家康を倒すことを目標にして動き始めます。
こうして深まった家康と三成の対立は、三成と親しかった上杉景勝を征伐するという家康の行動をきっかけにピークに達し、関ヶ原の戦いへと一気につながったのです。
【関ヶ原の戦いの内容】
《関ヶ原の戦い開戦》
9月15日午前8時、ついに戦端が開かれます。しかし西軍の毛利勢30000は、家康との密約を守り動こうとしません。戦況は一進一退をくり返していましたが、正午、家康は寝返りを約束させていた小早川秀秋に西軍を攻撃させ、形勢は一気に東軍に傾き、結局戦いは1日で東軍の勝利という決着がつきました。
関ヶ原の場所は、岐阜県南西部の不破郡にあります。伊吹山地と鈴鹿山脈に囲まれた盆地で、古代三関のひとつ、不破関が置かれたところです。
西軍武将一覧
関ヶ原の戦いに参加した大名たちのなかで、注目してほしい人物を「西軍」「東軍」に分けて下記にピックアップしました。
〈毛利輝元〉
毛利家は中国地方で120万石以上の領地を持つ有力大名でした。この当主輝元が、西軍の総指揮官にまつりあげられます。しかし輝元の戦意は低く、秀頼を守るという口実のもと、大坂城から動きませんでした。
戦後、輝元は改易(身分を剥奪し、領地を没収すること)となり、徳川方に味方した親族の吉川広家に2ヶ国が与えられることになりましたが、広家はそれらを輝元に与えるよう懇願し、周防、長門の両国が毛利家のものとなります。その後輝元は隠居・剃髪して宗瑞と称しました。
〈大谷吉継〉
吉継は、近江長浜城主時代の秀吉に仕えはじめます。賤ケ岳の戦いでは調略により手柄を立て、「七本槍に匹敵する」と称賛されました。
この活躍により従五位下、刑部少輔に叙任し、越前敦賀5万石の大名になります。その後、三成とともに事務方で働き、後方支援で活躍しました。関ヶ原では親しい三成に味方して西軍に参加しますが、戦闘で傷つき自刃します。
〈島津義弘〉
関ヶ原の戦いの時、島津勢は1500人ほどしかいませんでした。島津家はどちらに与する理由もなかったのですが、伏見城で家康の家臣ともめたため、三成側についたのです。
島津勢は戦いの時不気味に動かず、戦闘も終わりのころに家康の本陣後方へ脱出口を見出し、本陣をかすめるような敵中突破をします。島津勢のこの攻撃は多大な被害を出しましたが、勇ましさを強力にアピールしました。島津家は西軍側にもかかわらず、旧領の薩摩60万石を渡されます。
〈長宗我部盛親〉
盛親は三成に好意を持ってはいましたが、家康の方に天下を治める才があるとみていました。26歳と若い彼は、重臣を集め評議した結果、東軍につくことを決めます。そこで家臣を家康の元へ派遣したのですが、石田方の長束正家が設けた関所に遮られてしまいます。そのまま戻ってきた家臣を見て、盛親は心ならずも西軍に従うことにしたのです。
関ヶ原では大兵にもかかわらず形勢を見るにとどめましたが、戦後領国をすべて失いました。井伊直政の懇請により身柄の安全だけは保障され、盛親は剃髪します。しかし大坂の陣が起こると、彼は大坂城入りをし、夏の陣で討ち死にをしました。
東軍武将一覧
〈福島正則〉
正則の母が秀吉の妻おねと親戚であったこともあり、秀吉が近江長浜城主となった時に、彼に取り立てられました。秀吉のもと武功で大手柄を立て、尾張国清州24万石の大名になります。
秀吉没後は三成たち官吏と対立し、家康の味方になります。関ヶ原では先鋒を務め、戦後広島城主となり、49万8千石を与えられました。しかしその後家康の不興を買い、信濃国川中島4万5千石に遷されました。
〈黒田長政〉
長政は黒田官兵衛の長男として、播磨国姫路城で生まれました。父の官兵衛は秀吉の軍師として有名です。官兵衛が信長に臣従する証を示すため、長政は人質として秀吉のもとで暮らしはじめました。
その後秀吉に従い戦功を重ね、豊前中津に18万石の所領を得ます。しかし朝鮮出兵で三成と対立し、家康に近づくことに。長政は調略上手で、福島正則や小早川秀秋をも東軍に引き込みました。関ヶ原後、筑前52万3千石を与えられます。
〈前田利長〉
五大老のひとり、前田利家の長男で、父亡き後は金沢83万5千石の領主になりました。秀吉没後は家康にも、五奉行にも加担しない方針をとりますが、これが家康の不興を買い、謀反の疑いをかけられます。この時、家康に人質として母をとられたことがきっかけで、家康に従うようになります。
関ヶ原では戦いませんでしたが、東軍として活躍した功績により、120万石を治める国内一の大名になりました。
〈井伊直政〉
直政は1561年今川家の重臣、井伊直親の子として現在の静岡県浜松市に生まれます。今川家はその後没落し、14歳で家康のもとに出仕することになりました。彼の最初の軍功は、北条家との和睦交渉です。その才はいかんなく発揮され、「武田の赤備え」といわれる精鋭を含めた武田軍団を、自分の軍勢に加えました。これが後の「井伊の赤備え」部隊になります。
直政はその後「井伊の赤鬼」と恐れられる武人になります。関ヶ原では福島との先陣争いと、島津勢への追撃が有名です。戦後は近江佐和山城に入り18万石を授けられました。
〈織田長益/有楽斎〉
織田信長の弟で、「有楽斎」は茶人としての号です。豊臣の直臣で、御伽衆(主君の側で話し相手をする人)であったことや、秀頼の母が姪の淀君ということも関係なく、家康率いる東軍につきました。戦後3万石を与えられ、茶道「有楽流」を創設して茶道の道を究めます。
信長、秀吉、家康という天下人の誰よりも長く生き、1621年に75歳で大往生をしました。現在東京にある「有楽町」という町は、そこが彼の屋敷跡であったことから命名されています。
西軍・小早川秀秋の裏切り
この関ヶ原の戦いは、西軍・小早川秀秋の裏切りが、東軍の勝利のきっかけになったといわれています。彼はどういう人物で、なぜ西軍を裏切ったのでしょうか?下記にて人物像を見ていきます。
【生い立ち】
秀秋は秀吉の妻・おねの甥で、秀吉に養子に迎えられ羽柴秀俊と名乗り、丹波国亀山で10万石を与えられました。しかし成長して地位が高くなると気性の荒さも目立ちはじめ、秀吉に疎まれるようになります。
そこで秀吉は彼を、子のない毛利輝元の養子にしようと考えますが、それより早く小早川隆景が秀俊を自分の養子にしました。この時から彼は「小早川秀秋」と改名します。
【裏切りの経緯】
朝鮮出兵に参加した際、秀秋は日本軍の総大将として大勝しましたが、石田三成に持ち場を離れたことを責める報告を秀吉にされて領地を減らされてしまいます。これ以来、秀秋は三成を深く恨むようになったのです。
しかし三成が「反徳川」の挙兵に踏み切った時、秀秋は「秀頼様が成人するまで関白の地位につけるから、味方にならないか」という言葉で三成側へと誘われます。この時家康は上杉討伐で遠方にいたので、秀秋はとりあえず三成の味方になるとの返事をしますが、密かに徳川方と連絡を取っていました。
そして関ヶ原の戦いの前日、家康から秀秋宛に密書が届きます。その内容は「家康に忠節を尽くした暁には、上方に二カ国を与える」というものだったのです。
【関ヶ原の戦い】
関ヶ原の戦いでは、東軍西軍とも拮抗した戦いをしましたが、秀秋の裏切りにより情勢は変わります。この時、西軍の大谷吉継がすぐに小早川の対応に当たれたのは、開戦前から彼の動向を心配して、近くに布陣を敷いていたからでした。
しかし、問題は秀秋だけではありませんでした。秀秋には大谷が対応していましたが、吉川、小川、脇坂、赤座、朽木など他の大名も同時に裏切ってきたのです。これにより関ヶ原の戦いは、東軍の勝利に終わりました。
【秀秋のその後】
関ヶ原の戦い後、秀秋は岡山55万石の領主になります。名前も秀詮と改名しましたが、関ヶ原の戦いから2年後の1602年、21歳で急死します。その後、後継ぎがいないことを理由に小早川家は改易されました。
【まとめ】
関ヶ原の戦いの後、天下の流れは一気に家康へ傾きます。この後、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きます。
西軍から寝返った武将のその後は様々です。小さな藩を与えられ、幕末まで続いた家もありますし、小早川秀秋のように、わずか2年後に急死し、取り潰された家もあります。
ほぼ天下を手中にした家康にとって、後は大坂城の豊臣家が問題でした。東軍で活躍した福島正則、黒田長政などは秀吉恩顧の武将で、いつ自分に弓を引くかわかりません。
関ヶ原の戦いは、天下分け目の戦いと言われている割にはあっさりと決着がつきました。この後、政治闘争が中心になり、家康は豊臣家の力を徐々に削いでいきます。そして15年後に起こった大坂の陣。この戦いでは豊臣方に関ヶ原の戦いをきっかけに領地を失った長宗我部盛親、真田信繁、毛利勝永らの武将達が大阪城に入り、徳川軍と激戦を繰り広げることになります。
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