どうもanjinです!
今日は歴史分野の『享保の改革』を説明します。江戸時代の3大改革として、名前は多くの方が聞いたことがあると思います。いつも通り、基本的部分を中心に書いていきます。
【享保の改革とは】
享保の改革は、江戸幕府の八代将軍、徳川吉宗の在任期間中の1716年から1745年に行われた幕政の改革のことです。財政安定策が主眼であり、 寛政の改革や天保の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つです。
享保の改革は、江戸時代中期に行われた改革のことです。
改革が行われた享保期は、江戸幕府が始まって100年がたったころでした。100年も国を治めていれば、状況はいろいろと変わってきます。
そのため、それまでの幕政と同じ方針で国を治めることが難しくなり、新たな方針を打ち出すなど、幕政の改革でもありました。
【徳川吉宗について】
徳川吉宗は江戸幕府の8代目将軍であり、1716~45年の29年間在職しました。下記にて経歴を書きます。
■1684年
10月21日に紀伊藩主、光貞の四男として生まれました。
■1697年(元禄10)
14歳のときに越前国丹生郡に3万石を与えられましたが、1705年(宝永2)に紀伊藩主だった長兄と次兄が相次いで没したため、22歳で第5代紀伊藩主になりました。
就任の際、当時の将軍綱吉から一字もらって、吉宗に改名しています。
紀伊藩主時代は藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して藩財政の再建を推進しました。
■1716年(享保元)
将軍家継が8歳で夭逝し、老中らに推されて将軍に就任しました。
在職中は「諸事権現様(家康)御掟の通り」をスローガンに掲げ、家康時代の復古を目指します。
幕政の改革である享保の改革を行います。
有能な人材を多く登用し、財政の再建や都市政策、法整備に文教政策と幅広く改革に着手しました。
■1745年(延享2)
長男家重に将軍職を譲るも、家重は体が弱く、政務が執れる状態ではなかったため、大御所として家重に代わり、実権を握りました。
■1751年(寛延4)
6月20日に68歳で死去。
死因は脳卒中と言われています。
【享保の改革が起きた背景】
享保の改革が起きた背景は、主に下記の3つ考えられます。
生産力の停滞
江戸幕府の財源は米です。納められた米は役人に配られ、役人は米を食糧としたり換金したりして生計を建てていました。
幕府が財源を増やそうと思えば米の生産を増やせなければなりません。
そこで幕府は成立したころから新田開発に力を入れました。
しかし、新田開発も土地に限界がありますし農業技術の向上も江戸中期には頭打ち状態になりました。
幕府が始まって100年後には米の生産力を増やすこと、つまり年貢の増収が難しくなっていたのです。
貨幣経済の発展と江戸の発展
江戸時代は貨幣制度が整った時代でした。
幕府が金貨、銀貨、銭貨の三貨による統一的な貨幣制度を整えたことによって全国的にお金によるやり取りが広まっていったのです。
特に江戸では人口が100万人に達しており人口増加に伴って商取引も増えていきます。
江戸中期には商取引の増加とともに商取引によるトラブル、金銭貸借でのトラブルも頻発するようになっていました。
諸色高の米価安
諸色とは米以外の品を言い、「諸色高の米価安」とは『米以外のものはどんどん値上がっているのに米価だけは安くなっている現象』をいいます。
先述したとおり幕府財源は米でそれを市場で換金させるシステムをとっています。
諸色高の米価安では『米価が安くなって幕府財源は低下しているのに他の物価が高くなっているので幕府は財政的に困難』になります。
さらに米を支給される役人たちも収入が減ることになってしまい、特に下級役人は困窮のあまり商人に借金する事態にまで陥っていました。
幕府は米の生産量を増やす施策を打っており、米の生産量が飛躍的に増えていました。そのため市場では米が飽和し米価が安くなる事態になっていったのです。
【享保の改革の具体的政策】
《人材登用》
まず吉宗がおこなったのは、家柄に縛られずに優秀な人材を登用するということ。これにより、それまで政策担当を務めていた新井白石や間部詮房らが解任されます。
そして大抜擢されたのが、大岡忠相になります。旗本のなかで大出世をし、大名にまで上り詰めた人物です。大岡は、都市政策南町奉行として諍いが絶えなかった「町火消し」の組織化、農政改革、基金対策などに貢献しました。
《足高の制》
当時の江戸幕府は、ある程度高い身分で、尚且つ一定基準を超えた石高が無い限り、高い役職に就くことは不可能でした。その制度を変えたのが足高の制です。
低い身分でも能力がある者には米を支給して石高を上げ、役職に就いている間は相応の身分にさせることで優秀な人物を見つけようとしたのです。
《定免法》
これまでは収穫量によって左右される「検見法」で年貢高を徴収していたました。吉宗は、豊作・凶作に関わらず税率を一定にする「定免法」に切り替え、幕府の税収を安定させました。
《上米の制》
幕府の米収入を増やすための直接的な政策です。大名から1万石につき100石の米を幕府に献上させるようにしました。献上米を納めた藩は参勤交代での江戸滞在の期間が半年に短縮されます。
《倹約令》
幕府の財政状況を少しでも良くするために、吉宗自身も率先して倹約をして無駄な出費を抑えるように心がけました。木綿を愛用し、食事は1日2回で一汁一菜を徹底する生活ぶりだったそうです。
また、贅沢の象徴ともいわれる「大奥」も改革します。4000人ほどいた大奥勤めを、働き口が見つけやすい美人を優先して解雇し、1300人にまで減らしたのです。
《公事方御定書》
刑事裁判の公平性と迅速化を図るため、これまでの判例をまとめた物が「公事方御定書」です。どんな罪が死罪になり、どんな罪が島流しになるなど、それぞれの罪に対する刑罰をあらかじめ定めました。これが裁判の基準となり、江戸幕府の基本法典となります。
対象は幕府の直轄地のみでしたが、写本が各地の大名たちに広がり、全国的な刑法の規定として拡大していきました。
《目安箱》
農民や商人など身分の低い人の意見を幕府に届ける機会を作ろうと設置されたものです。ルールは、実名で投稿することであり、これによって庶民と幕府の距離が近くなり、さまざまな提案がなされました。
町火消し組合の創設や、小石川養生所設置も目安箱がきっかけだったといわれています。
【享保の改革が与えた影響】
享保の改革は、多方面にわたり影響を与える改革でした。
人材登用についてはある一定の成果を収め登用した人間が実際に活躍したり目安箱は江戸の福祉に大きく貢献しました。
財政再建策は、一応成功を収め年貢の増徴に成功します。
また、物価対策では、一時は失敗したものの貨幣改鋳による対策は一応の成果を残すことはできました。
上記を踏まえると、『享保の改革はある程度成功に終わった』といえます。
しかし、質流し禁令の失敗は地主の土地集積を促す結果になり、株仲間の結成促進はもはや幕府が商業資本に頼らざるを得ない状況に陥ったことを示すことになりました。
また、定免法は農作物の作柄によらず、一定の税率を強いるもので農民の負担を増やす結果につながるなど負の側面もあります。
つまり、享保の改革は、『江戸時代における問題の根本的解決はできなかった』のです。そこで、次の寛政の改革、天保の改革へと続いていくことになります。
【まとめ】
幕府の財政悪化、政治の停滞、災害の多発など、吉宗が将軍に就任したときの幕府は厳しい状態でした。そんな状況を打破しようと断行したのが享保の改革です。
吉宗は独自の目線とリーダーシップ力で、徳川全将軍のなかで2番目に長い29年間も幕府を統率してきました。
欲をいえば、もう少し農民たちの暮らしを配慮できる政策であればより評価は高かったと思いますが、最後まで国や幕政を良くするという決意と志を持って行動した稀代の英雄だと感じます。
【参考書籍】
以上が本日のテーマとなります、ご覧頂きありがとうごさいます!
コメント