どうもanjinです!
今日は歴史分野の『寛政の改革』を取り上げます。前回は「享保の改革」を取り上げましたが、今回は、江戸時代3大改革の2つ目である『寛政の改革』を解説していきます。
【寛政の改革とは】
寛政の改革とは、老中・松平定信が行った、天明七年(1787)~寛政五年(1793)の約五年間に行われた政策の総称です。祖父の八代将軍吉宗が行った享保の改革を模範しました。然しながら享保の改革とは大きな相違点があります。
享保のころは、もっぱら国内問題にだけ取り組んでいればよかったですが、寛政の改革は新たに外交問題が加わりました。また失脚した老中・田沼意次の政策は商業中心でしたが、定信の政策は、自然災害の背景をとして重農主義をとりました。
【松平定信について】
寛政の改革を行ったのは、当時の老中・松平定信です。
松平定信は白河藩主としての活躍しており、『享保の改革を』行った8代目将軍・徳川吉宗の孫でした。
幼い頃から優秀で、将来は将軍になるのではないかと期待されるほどだったそうです。
しかし、当時の権力者であった田沼意次を批判したために、白河藩へと養子に出されてしまいました。
これにより定信が将軍になる道は閉ざされてしまったのですが、白河藩主に就任してから大変な活躍をみせます。
藩の財政を建て直すだけでなく、飢饉でも備蓄を領民に配るなどして犠牲者を最小限に抑えました。
そうしたところから、定信は名君と呼ばれていました。
田沼意次による乱れた幕政を正す人として推薦されるには、十分な人材だったのです。
そして、先に見たような定信独自の路線で政策を行っていきました。
定信は今でも白河楽翁と呼ばれ、たくさんの人に親しまれています。
【寛政の改革が起きた背景】
①田沼意次の重商主義
享保の改革が終わったのち、幕府の財政改革は田沼意次が担当していくようになります。
田沼意次の改革の最大の特徴は、重農主義が絶対の江戸時代に重商主義という商業を重視した政策をたくさん行ったことにあると思います。
例えば、株仲間の創設です。
株仲間というのはいわゆる商品の組合みたいなもので、商品の流通や価格をひとまとめにして幕府はそこから税金を徴収するという新たなシステムでした。この株仲間は商人にとっても幕府にとってもいいことずくめでまさしくwin-winな制度でした。
さらに当時バラバラだった貨幣制度(江戸などの東日本は金、大坂・京都などの西日本は銀)を統一して貨幣の流通をスムースにしました。
それだけではなく、田沼意次は貿易にも力を入れます。
当時、日本は貿易赤字でした。そこで貿易赤字をなくすために日本近海で取れるナマコやアワビやフカヒレなどの海産物(俵物)を中国中心に売り始めます。
この海産物は中国で高い評判を呼び、いつしか日本は貿易黒字へと変わっていきました。
しかし、その分賄賂政治が始まってしまい、汚職が頻繁に起こってしまいます。
②田沼意次の失脚と松平定信の台頭
田沼意次の改革は画期的なものが多かったのですが、それが仇となり幕府の人から反感を買ってしまいます。
さらに浅間山の大噴火による大飢饉(天明の大飢饉)、印旛沼の灌漑事業の失敗が、さらに反感を加速させてしまいついには失脚してしまいます。
田沼意次が失脚した後に幕府の財政改革を推し進めたのが、松平定信でした。
松平定信は白河藩での財政を立て直すという功績を挙げて、さらに飢饉の時には白河藩では死者数がゼロという偉業も成し遂げていました。
そこで幕府は田沼意次に変わってこの頼れる松平定信に財政の立て直しを任せたのです。
【寛政の改革の具体的政策】
松平定信は、まず田沼意次が実施していた「重商主義」(産業の保護や育成を国家が積極的に行ない、輸出を増やすことで国を豊かにしようとする経済思想)の政策から、「重農主義」(重商主義に対し、国家や社会の富の基礎は農業にあるとする経済思想)の政策への転換を図りました。
そこで目指したのは8代将軍であり、松平定信の祖父でもあった徳川吉宗が行なった「享保の改革」です。松平定信の寛政の改革では、以下のような政策が具体例として挙げられます。
《旧里帰農令》
- 農業を辞め、出稼ぎのために江戸へ流入した大量の農民に対し、帰農や帰村することを推奨した法令。これには農村の人口が少なくなったことで、幕府の税収である年貢が減ったことが背景にありました。都市で生活している農村出身者に資金を与えて、農村に返すことを定めた法令です。
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《囲米の制》
- 飢饉に備えて、1万石の石高につき50石の米を大名に備えさせた制度。また、町民には町費などの節減を促し、その分浮いたうちの7割を積み立てさせる「七分積金」の制度を敷いています。
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《棄捐令》
- 町人からの借金により、貧困に陥った御家人(ごけにん)や旗本の旧先を目的に、6年以上前の借金は帳消し、5年以内の借金については、利子を引き下げるように命じた法令。江戸幕府はこの法令により、経済力を持ち始めた町人の力を弱めることを、その目的のひとつとしていました。
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《人足寄場》
- 江戸の石川島(いしかわじま)に建てられた職業訓練の施設。無宿者や前科者を収容して自立を促進するだけでなく、治安対策としても用いられていた場所です。
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《寛政異学の禁》
- 風紀の乱れを取り締まるため、「朱子学」を幕府公認の学問に定めた制度。「陽明学」や「古学」など、朱子学以外の学問を「異学」と見做し、官立の「昌平坂学問所」において、それらの講義を行なうことを禁じていました。
【寛政の改革の結果と影響】
結果から言えば、『寛政の改革』は失敗に終わりました。
定信も失脚してしまいます。
その原因となったのが、厳しすぎる倹約令です。
田沼意次時代、民衆は自由な生活を謳歌していました。
それが突然の厳しい倹約令を出され、多くの人が幕府への反感を抱きました。
定信が老中に就任したときには、「田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水」という歌が流行り、定信による清く正しい政策を期待されていたのです。
しかし、改革が期待していたようなものではなかった結果、「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という歌が詠まれました。
「定信の時代は厳しいから田沼意次の時代が恋しい」というのです。
さらに、尊号一件という事件も定信の失脚の原因のひとつです。
この事件は当時の天皇・光格天皇が父親である典仁親王に「太上天皇」の尊号を宣下したいと言ったのを、定信が再三拒否したものです。
事件をきっかけに幕府と朝廷の間も緊張関係となり、将軍とも不仲になった結果、定信は失脚したといわれています。
【まとめ】
寛政の改革は、松平定信が主導して行ったこと、そして秩序を高めようとしたことがポイントです。寛政の改革は失敗に終わりましたが、それは必要以上に風紀を取り締まったことによる反発が原因です。
経済政策においては成功した部分もあり、そこだけに注目してしまうとなぜ失敗に終わったのかが理解できなくなってしまいます。
他の改革との違いを抑えるためにも、秩序を高めるために風紀の取り締まりを行ったことは覚えておいてください。
【参考書籍】
以上が本日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうございました!
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