【歴史】ビジネス教養 〈本能寺の変〉

歴史

どうもanjinです!

今日は歴史テーマで『本能寺の変』を取り上げます。この事変は、歴史好きでなくても誰もが聞いた事があると思います。

NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』の放送が終了したばかりです。明智光秀と言えば、本能寺の変というイメージがあると感じます。明智光秀とはどういう人物だったのか?を考えながら文章書いていきます!

【本能寺の変とは】

本能寺の変とは、『豊臣秀吉の備中高松城攻撃を救援するために、京都本能寺に滞在していた織田信長が重臣である明智光秀に急撃され、命を落とした事件』です。

具体的な内容は、以下になります。

織田信長が1582年3月に難敵・武田氏を討ち、天下人にまた一歩近づいた矢先のことです。織田信長は備中で毛利氏と争っていた家臣・羽柴秀吉、後の豊臣秀吉の救援に向かうため京都の、『本能寺』に宿泊することになりました。

一方、明智光秀も中国出陣を命ぜられていましたが、冒頭の「敵は本能寺にあり!」という言葉にある通り、1万数千にも及ぶ自身の軍勢を西(中国方面)へ向かわせず、東(京都)に転じて『本能寺』を急襲しました。

明智光秀の大軍に対し、織田信長は数十人というわずかばかりの兵しか従えておらず、織田信長は自害という選択肢を選びました。

織田信長は、天下統一を目前にした49歳の時でした。

『変』と『乱』の違いは?

そもそも、本能寺の変の「変」ってどういう意味なのでしょうか?

「変」と「乱」は、社会的な影響の規模、そもそもの争いの規模によって使い分けます。
「乱」は大規模な争いとなり、社会に大きな影響を与えたクーデター、一方、「変」は社会的な影響がそこまで大きくない、突発的なクーデーターを指します。

明智光秀が与えた影響はとても大きかったですし、「本能寺の乱」と呼ぶことも可能なのかもしれません。

【明智光秀について】

ここで、明智光秀の経歴を書きます。

● 1528年(享禄1年)1歳
美濃国(現在の岐阜県)にて生誕
● 1556年(弘治2年)29歳
斎藤道三が斎藤義龍と争った長良川合戦で道三側に付いた光秀。
道三が敗死すると、明智城も攻め落とされ、越前へ逃れる。
● 1568年(永禄11年)41歳
足利義昭の足軽衆として臣従。義昭が越前一乗谷から美濃岐阜へ移った後、信長が義昭を奉じて上洛。
● 1570年(永禄13年/元亀1年)43歳
近江・姉川合戦や志賀の陣で功を挙げ、出世の道に乗る。
● 1571年(元亀2年)44歳
光秀が中心となり比叡山延暦寺攻めを行う。
近江志賀郡を拝領し、初めての城作り、坂本城の築城を開始。義昭との主従関係を解消。
● 1575年(天正3年)48歳
朝廷より「惟任日向守」を賜る。丹波攻めを信長から命ぜられる。
● 1576年(天正4年)49歳
妻・煕子が病死。丹波攻めの拠点・亀山城の築城を開始。
● 1578年(天正6年)51歳
娘・玉(後のガラシャ)が細川忠興に嫁す。
● 1579年(天正7年)52歳
丹波と丹後の平定を完了させる。
● 1580年(天正8年)53歳
丹波を拝領。
● 1581年(天正9年)54歳
京都で行われた『京都馬揃え』で、それまでの功績を認められ、序列3番目に並ぶ。
光秀父子が細川父子の招きで丹後の天橋立にて遊び、親睦を深める。妹の妻木が没する。
● 1582年(天正年)55歳
本能寺の変を起こす。
山崎合戦で敗死し、坂本城落城。



【本能寺の変を起こした理由】

光秀がなぜ信長に反逆したのかについては、現在も謎が多く、はっきりとした理由がわかっていません。

日頃、信長に「はげ頭」と罵られ、パワハラまがいの仕打ちを受けていたことが理由であるとか、前述のように饗応役を理不尽に解任されたことなども推測されますが、自分で天下を取ろうとしたという説や、徳川家康や豊臣秀吉が黒幕だという説もあるなど、光秀の本心はいまだ判明していないのです。

一方、光秀は斎藤利三の妹が四国の長宗我部元親の正室となっていたこともあり、元親と信長の仲介役を任されていました。当初は信長が元親を攻めるはずでしたが、光秀の尽力により何とか穏便に事が運ぶ手筈となっていたのです。ところが、突然信長は約束を反故にして、元親を討つと言い始めました。これでは光秀の立場がありません。

このように、面子を潰されたことが要因だという説もあります。それに、元親が討伐されてしまえば、光秀の功績は無に等しくなり、一方で中国征伐に功績を挙げている秀吉はさらに評価され、立場が逆転することになります。それが耐え難かったという説もあるそうです。

 

【明智光秀の動機ー諸説ありー】

《怨恨説》

最も古典的といえる説が、光秀が信長を恨んでいたとする「怨恨説」です。映画やテレビドラマで、信長の機嫌を損ねた光秀が、打擲されたり、足蹴にされる場面を観たことがある人も多いと思います。あるいは光秀が自分の母親を人質にして敵を降伏させたところ、信長が約束を破って敵将を殺したため、母親も敵方に殺されてしまった話や、安土城を訪れた徳川家康の接待に手抜かりがあったとして、信長に満座の中で折檻された話も有名です。

こうした信長の仕打ちを恨んだ光秀が謀叛を起こしたと、江戸時代から語り継がれ、芝居などでも演じられて、戦前までそれが光秀の動機と信じられていました。しかし実は信長のひどい仕打ちが記されているのは、ほとんどすべて後世の編纂物で、光秀が生きた当時の同時代史料からは確認できません。

江戸時代の読み物や芝居が、読者や客の関心を引き、共感を呼ぶために脚色した俗説が流布し、ドラマなどで今なお描かれて、私たちもそれを疑わずに事実と信じてしまっているのが現状なのです。光秀は本能寺の変の半年前の茶会の席で、信長自筆の書を掲げています。その姿勢を見ても、直前まで関係は良好だったと考えるべきです。

《野望説》

戦後、光秀の動機は「怨恨」ではなく「野望」であるとしたのが、歴史学者の高柳光寿氏です。その著書『明智光秀』(1958年、吉川弘文館)は、確かな史料に基づいて従来の怨恨説を一つひとつ否定し、「光秀は天下を狙った」と結論づけたもので、本格的な光秀研究の端緒となったとされています。「野望説」は今でも影響力を持っていますが、一方で、天下を狙ったにしては、本能寺の変後の光秀の行動があまりに無計画に過ぎるのではないかという疑問が提示されています。

《黒幕説》

野望説に疑問が呈される一方で、次々と主張され始めたのが、光秀の背後には彼を操る黒幕がいたのではないかとする「黒幕」存在説でした。その主なものを紹介します。

朝廷黒幕説

当時、朝廷と信長の間には、さまざまな軋轢があったとされます。信長は正親町天皇に譲位を迫り、暦を訂正するよう求めるなど、朝廷に圧力をかけていました。また本能寺の変後、関白や太政大臣を歴任した近衛前久が事件関与を疑われて逃亡、光秀と朝廷の取次役であった吉田兼見は、本能寺の変前後の日記を改ざんし、光秀との関係を隠そうとしました。こうした公家たちの不審な動きが、朝廷が光秀の黒幕であったことを示しているといわれます。

足利義昭黒幕説

室町幕府15代将軍の義昭は、信長と対立して諸国の大名に打倒信長を呼びかけ、自らも挙兵したため、元亀4年(1573)に信長によって京都から追放されました。一般的に室町幕府はこの時に滅亡したとされますが、義昭は将軍職のまま毛利輝元領の備後で亡命幕府を維持しています。そして2年前(2017)、光秀が山崎の戦いに臨む前日に書いた手紙の原本が見つかり、光秀が「義昭を京都に迎えたい」と書いていることから、その意図は「室町幕府再興」にあったとする見解が示されて話題になりました。

羽柴秀吉黒幕説

本能寺の変によって最も得をした者は誰か? となれば、明智光秀を討って天下人となった秀吉になります。光秀は四国の長宗我部元親と親戚ぐるみの親交を持ち、信長もそれを認めていましたが、信長が元親を見限ると、秀吉は元親の仇敵である三好康長の四国復帰を支援、信長の了承も取り付けて光秀を窮地に陥れました。また、本能寺の変が起きると、秀吉は戦っていた毛利氏と素早く講和を結び、光秀を討つべく現在の岡山市から京都までの約200kmを10日で走破する「中国大返し」をやってのけます。その手回しのよさから、秀吉は光秀が謀叛を起こすよう仕向けていた、とされます。

徳川家康黒幕説

信長の同盟者の家康は、かつて正室と長男が武田氏に内通している疑いを信長にかけられ、二人を死なせています。信長への憎しみはありました。しかしそれ以上に家康を不安にしたのは、武田の滅亡で、東の防波堤役を務めてきた徳川の存在価値が失われたことでした。信長は自分にとって価値がないと見れば手のひらを返すのは、長宗我部の例からも明らかです。実際、宣教師のルイス・フロイスは、信長が家康を殺すつもりではないかと疑い、本能寺に向かう光秀の手勢には「敵は家康」と思い込んでいる者もいたほどでした。危険な状況を打開するために、家康は何らかの方法で光秀に謀叛を起こさせたとも考えられます。

 

これらの黒幕説に共通するのは「状況証拠」しかないことです。足利義昭説以外の黒幕説で研究者が支持しているものは現在ありません。足利義昭説にも多くの疑問が提示されており、最新研究における大勢は光秀が単独で本能寺を起こしたとされています。

《四国動乱説》

四国の長宗我部問題と、光秀重臣の斎藤利三が本能寺の変に大きく関わっているという説です。

当初、信長は土佐から四国制覇を目指す長宗我部元親に友好的でした。というのも、信長は大坂の本願寺と10年に及ぶ戦いを続けており、元親は四国から本願寺の背後を脅かす存在として貴重だったのです。信長は元親の四国統一を認めていました。

ところが天正8年(1580)に本願寺と講和すると、信長は元親への態度を一変し、土佐の他は阿波半国の領有しか認めないようにしました。元親と信長の取次役を務めていた光秀は面目を失い、元親は信長と決裂しました。

特に困ったのは斎藤利三です。実は元親の正室は利三の義妹、元親の長男の正室は利三の姪で、長宗我部と明智家中は血縁関係で結ばれていました。信長は四国攻めを計画しますが、光秀にすれば長宗我部を攻める事態は何としても避けたかったのです。

そんな最中、今度は斎藤利三自身が信長の標的となります。利三はもともと同じ織田家中の稲葉一鉄に仕えていましたが、一鉄と喧嘩し、光秀の家臣となりました。

本能寺直前の天正10年、那波直治がやはり一鉄のもとを去り、光秀に仕えます。利三の引き抜きによるものでした。これに一鉄が怒って信長に訴え、信長は光秀に那波を一鉄のもとへ戻し、利三には切腹させるよう命じます。その後、利三は助命されますが、フロイスは『日本史』に抗弁した光秀を信長は足蹴にしたと記しました。事実かはともかく、四国問題と重臣利三への厳罰が、光秀に謀叛を決意させたとします。

《信長非道阻止説》

最後は、信長による数々の暴挙を見かね、これ以上の非道を阻止するために討ったとするものです。

光秀は本能寺の変の翌日に出した手紙に「信長父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候」と記しました。

悪逆非道の具体的な内容は、

①信長による皇位簒奪計画、②暦への口出し、③源氏でないにもかかわらず将軍に任官、④太政大臣近衛前久への暴言、⑤天皇から国師号を授けられた高僧・快川紹喜の焼殺、⑥安土城に御所清涼殿を模した本丸御殿を造営」などとされます。

朝廷黒幕説の内容ともかぶりますが、あくまで光秀の意思で信長を討ったとする説です。

 

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『本能寺の変』後の明智光秀

中国大返し

本能寺の変の襲撃に成功した明智光秀でしたが、この後、想定外の出来事が多々起こり、それが命取りとなってしまいます。まず羽柴秀吉の行動が予想以上に早かったことで、明智光秀は織田信長の家臣達が自分の元に到着するには時間がかかると読んでいました。

この時、織田信長の家臣達は戦の真っ最中でしたし、羽柴秀吉に至っては中国地方で毛利家を攻めていたのです。しかし、羽柴秀吉は織田信長の自害を知らされると毛利家と講和、わずかな期間で京都に近い距離まで戻ってきました。

さらに、明智光秀に味方する者も少なく、瀬田橋が焼かれたことの修復にも時間がかかったことも痛手でした。このため、充分な兵力を準備できない状態で羽柴秀吉を迎え撃たなければならなくなったのです。当然、新政権を整える充分な準備もできていませんでした。

山崎の戦い

山崎の戦いとは、『1582年の羽柴秀吉と明智光秀の軍勢の戦い』で、この戦いで明智光秀は死亡しました。ただ、死亡の経緯については複数の諸説があり、「落ち武者狩りに遭遇して殺害された」や「家臣に介錯によって死亡した」等、伝えられています。

また、山崎の戦いには明確になっていない部分がいくつかあり、例えば羽柴軍と明智軍の兵力数です。羽柴軍がおよそ27000だったことに対して明智軍はおよそ17000とされていますが、これにも複数の諸説があり、羽柴軍が40000以上だったという説もあります。

とはいえ、明智軍が準備不足だったのは確かであり、不利な状況で羽柴軍と戦ったのは間違いないと思います。また、安土城で留守を預かっていた明智光秀の重臣の明智秀満も城に火を放って自害します。この山崎の戦いが起こったのは1582年の6月13日であり、同年6月2日の本能寺の変からわずか11日後の出来事でした。

 

以上が本日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうございました!

 

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