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今日は歴史分野の『大日本帝国憲法(明治憲法)』について書きます。明治時代に作られた大日本帝国憲法と現在の日本国憲法が違うことは皆さん知っていると思います。今回は明治憲法がどのように成立したのかを中心に解説していきます。
【大日本帝国憲法とは】
大日本帝国憲法とは、プロイセン憲法を模範としてドイツ型立憲主義を採用した明治憲法のことです。
大日本帝国憲法は1889年2月11日に交付されて、翌年の11月29日に施行されました。
制定の動機は、『自由民権運動の高まり』と『欧米列強との対等外交の実現』です。
1882年に参議の伊藤博文は政府の命を受けてヨーロッパに渡り憲法の調査を行いました。
伊藤博文はベルリン大学やウィーン大学の教授より、
『憲法はその国の歴史や文化、伝統に立脚したものでなければならない』
というアドバイスを貰い、当時のドイツが君主の力が強く法治主義的思想であり、
日本の天皇制と近しい部分があったためドイツ憲法を参考にしたと言われています。
起草人は伊藤博文の他に伊藤巳代治、金子健太郎、井上毅がいます。
大日本帝国憲法の起草は1883年頃から始まりました。
1886年頃からがロエスレルやモッセなどの外国人法律家の助言を得て、憲法草案を書き上げました。
自由民権運動活動の一環として、民間から私擬憲法が提出されましたが、
政府は1887年に保安条例を出して私擬憲法の作成を禁止しています。私擬憲法の内容は、憲法の制定に影響する事はありませんでした。
【伊藤博文について】
大日本帝国憲法の作成に大きく貢献したのが、のちに初代内閣総理大臣になる伊藤博文です。彼は1841年に周防国(山口県)で林十蔵の長男として生まれた、百姓出身の政治家です。
1871年、岩倉使節団として欧米先進国へ視察に行った伊藤博文は、アメリカやヨーロッパの国の発展を目の当たりにし、憲法の必要性を実感します。日本国内でも、板垣退助の自由民権運動や大隈重信の意見書などさまざまな政治運動が行われていました。
帰国後、憲法制定の責任者に任命された伊藤博文は、1882年に明治天皇に命じられて、憲法の調査のために再度ヨーロッパへ渡ります。
1年少しかけて、プロイセンやイギリス、オーストリアなどを調査し、そのなかでも伊藤博文が気になったのがプロイセンでした。そしてウィーン大学の憲法学者シュタイン、ベルリン大学の公法学者グナイストやアルバート・モッセたちからプロイセン式の憲法理論や軍事学、統計学などさまざまな学問を学びました。
1885年に初代内閣総理大臣に就任した伊藤博文は、1888年には憲法草案についての意見の場として枢密院を設置しました。このとき、枢密院の初代議長となるために伊藤博文は内閣総理大臣を辞任しています。
上記でも説明しましたが、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎、ドイツの法学者らの助言を参考にしつつ、4年という年月をかけて大日本帝国憲法を制定させました。
こうして、1889年2月11日に黒田内閣の下で大日本帝国憲法が発布されたのです。
【大日本帝国憲法と日本国憲法の違い】
現在の日本の憲法である「日本国憲法」は、第二世界大戦後の1946年にGHQの指導に基づき公布されます。
大日本帝国憲法と日本国憲法の大きな違いは、下記の4つです。
- 憲法の種類
- 主権
- 人権
- 天皇の地位
憲法の種類
大日本帝国憲法は天皇の意思で制定された「欽定憲法」に対し、日本国憲法は国民主体で制定された「民定憲法」です。
主権
大日本帝国憲法の主権は天皇にあり、国務大臣や官吏は天皇が任命して議会は政府を組織する権限などがありませんでした。
そのため憲法の改正も天皇の発議によって議会が議決するという決まりです。
一方で日本国憲法の主権は国民です。だから憲法の改正は国会の発議により国民投票を行うものと定められています。
人権
大日本帝国憲法には、臣民(国民)には、兵役の義務と納税の義務があります。
また人権も、天皇の恩恵であり法律の範囲内で自由や権利が認められるというものでした。
一方で日本国憲法は勤労、納税、教育を受けさせる義務が定められています。
人権についても「いかなる国家権力でも侵されない永久の権利」として公共の福祉に違反しない限り、尊重されるべき権利と定めています。
天皇の地位
大日本帝国憲法では天皇は神聖不可侵な存在であり、国政を行う権限すべてを持っています。
天皇には軍隊の統率権などもあり、国民は天皇に服従する必要があると定めています。
一方で日本国憲法だと天皇は日本国民統合の象徴にとどまり政治上の実権はありません。
天皇ができるのは、法律の公布や国会の召集などの国事行為のみです。
比較のまとめ
大日本帝国憲法 | 日本国憲法 | |
---|---|---|
発布 | 1889(明治22)年2月11日 欽定憲法 | 1946(昭和21)年11月3日 民定憲法 |
主権 | 主権在君 | 主権在民 |
天皇 | 神聖不可侵の元首。統治権のすべてを握る総攬者として天皇大権をもつ | 日本国および日本国民統合の象徴 |
内閣 | 各国務大臣は天皇の輔弼機関。天皇に対して責任を負う。 内閣総理大臣その他の国務大臣は天皇が任命 |
議院内閣制 行政権を行使し、国会に対して責任を負う 内閣総理大臣は国会で指名 |
議会 | 天皇の立法権行使の協賛機関 帝国議会:衆議院・貴族院の二院制 両院の権限は対等(予算先議権は衆議院) |
国権の最高機関、唯一の立法機関 国会:衆議院・参議院の二院制 衆議院の優位 |
選挙 | 衆議院議員は公選 | 普通選挙 |
国民の権利 | 「臣民」として法律の範囲内で所有権の不可侵などを保障 | 永久不可侵の権利として基本的人権の尊重 |
軍隊 | 臣民に兵役義務・統帥権の独立(陸海軍統帥権は天皇に直属) | 平和主義・戦争放棄、戦力不保持 |
裁判 | 天皇の名においておこなう | 司法権の行使、裁判官の独立 |
改正 | 天皇に発議権 | 国会の発議で、国民投票 |
【大日本帝国憲法の欠陥】
大日本帝国憲法には、主に下記2点の欠陥があるといわれています。
「君臨すれども統治せず」の考え
明治時代の君主制であることから、大日本帝国憲法は欽定憲法になりました。そんな大日本帝国憲法には欠陥があり、それが日本を悲劇の未来へと導いていきます。
大日本帝国憲法では「天皇は帝国議会の協賛を以って立法権を行う」や「天皇は陸海軍を統帥する」と記されていました。
これらの内容から読み取れるのは、「全ての権利が天皇に集中する」ということです。さて、やがて日本では明治の時代が終わり、昭和の時代が始まります。昭和天皇になっても大日本帝国憲法は健在でしたが、昭和天皇は「君臨すれども統治せず」を考えとしていました。
そこで、大日本帝国憲法の内容と昭和天皇の考えを統合すると「全ての権利は天皇が持っているが、天皇は指示をしない」とも言い換えられるでしょう。この言い換えが可能であることこそ大日本帝国憲法の最大の欠陥であり、日本を悲劇の未来へと導いた原因にもなったのです。
制御されない「軍隊の暴走」
大日本帝国憲法の欠陥によって起こった事態、それは陸海軍による軍隊の暴走です。
陸海軍に対して統帥権を持つのは天皇であり、つまり軍隊の動きに対して内閣は一切口出しができません。そして一方で、天皇が陸海軍に直接指示をすることもないのです。
つまり、軍隊は何者にも制御されず自由に動けることになり、結果「陸海軍は天皇に直属する」を盾にした軍隊が暴走してしまうのでした。その末に起こったのが日中戦争の長期化で、さらに日中戦争の長期化の末に起こったのが1941年の太平洋戦争です。
当時の世界は1939年に勃発した第二次世界大戦の真っ只中でした。日本は日中戦争によっていつしか太平洋戦争を引き起こすことになり、太平洋戦争を引き起こしたことで第二次世界大戦に巻き込まれる形となったのです。
【まとめ】
日本帝国憲法は『自由民権運動の高まりによる国民からの憲法制定要求』と、『欧米諸国と肩を並べ近代国家として認められたいという明治政府の思い』から制定されました。
大日本帝国憲法は天皇主権となっており、あらゆる機関が天皇を補佐するための機関でした。
かつての大日本帝国憲法の歴史的展開と現在の日本国憲法の運用方法を比べ、冷静な見る眼を養うことで、現代政治に関する考察がより実りあるものとなると思います。
【参考書籍】
明治憲法における「国務」と「統帥」 (総帥権の憲法史的研究)
以上が本日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうございました!
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