【歴史】ビジネス教養における元寇

どうもanjinです!

今日は教養の歴史テーマになります。中学生の日本史教科書にも出てくる『元寇』をを取り上げたいと思います。(Ghost of Tsushimaも面白いですね!)

【元寇とは】

元寇とは、モンゴル帝国(元)の皇帝フビライによる2回の日本侵略のことであり、『蒙古襲来』とも言われている。2回の侵略とは、1274年の文永の役と1281年の弘安の役である。『元寇』の語源は、モンゴルの大号をフビライが『大元』としていたことと、侵略を意味する「寇す(あだす)」という単語が由来しています。

【1回目:文永の役】

元は、日本を属国にしようとして何度も国書を送ったが日本側は無視したため、元・高麗連合軍は、対馬/壱岐を侵し、博多湾に上陸しました。元軍の激しい攻撃に日本軍は敗走してしまうが、夜中に暴風雨となり、元・高麗連合軍も艦船が破損・難破したため撤退したと考えられている。この暴風雨が神風となったとも言われるが、今尚、元軍がすぐに撤退した理由は不明な点も多くあります。

【2回目:弘安の役】

1281年、元と高麗の連合軍は再度襲来したが、石築地※の効果もあって、元と高麗の連合軍を海上に退かせることに成功しました。さらに、暴風雨に見舞われた元と高麗の連合軍は、大きな被害を受けて撤退します。

(※元の攻撃に備えて,九州各地の御家人に命じて,1博多湾の海岸沿いに約20kmにわたる石垣を築かせました。この石垣のことを「元寇防塁」と言います。)

【3回目の襲来がなかった理由】

弘安の役が失敗に終わり、元軍は諦めたように思えますが、実は、元は3度目の襲来も考えていました。しかし、元の支配に反対する中国民衆の反乱やベトナムの抵抗などがあり、これは実現していません。もしも3度目の元軍による襲来が実現していたら、日本はそれを阻止することができたでしょうか?

【まとめ:元寇の考察】

日本史の側からだけ見ていると、元寇(蒙古襲来)は唐突で、2度にわたって暴風のために失敗した点が強調されると、突発的な出来事という印象を受けます。しかし、世界史の側面から見ると、モンゴル帝国が覇権を及ぼそうとしたのは、日本だけではなく元の遠征活動の一環であり、蒙古襲来といっても軍の実態は、高麗人や南宋人が多数動員されていたことがわかります。さらに、鎌倉幕府の視点でみると、鎌倉武士達が元寇を「国家の危機」として戦ったのではなく、御恩と奉公という「封建的主従関係」の中で結束した戦いだったという見方もできます。

以上が今日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうこざいました!

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