【歴史】ビジネス教養 〈大政奉還〉

歴史

どうもanjinです!

今日は歴史分野の『大政奉還』を取り上げます。江戸時代から明治時代への転換となった出来事です。大河ドラマ等、テレビでもよくとりあげられるテーマになります。

【大政奉還とは】

幕末の情勢における慶応3年(1867)10月14日、江戸幕府の第15代将軍・徳川慶喜はそれまで『200年以上徳川家が担っていた政権を天皇に返上する旨を上奏』しました。翌15日にこの上奏が認められ、長きにわたり続いた徳川幕府はその幕を下ろすことになったのです。この一連の出来事が大政奉還です。これは、もともと土佐藩を中心とする勢力が建白したものを慶喜が取り上げて朝廷に上奏したものでした。

 

【大政奉還を実施した背景】

大政奉還を実施した背景は、主に下記の6つによります。

①強まる外圧

1853年にペリーが浦賀に来航して以来、日本は国際社会の渦に放り込まれてしまいました

特に世界各地で植民地争いをしていたイギリスとフランスが日本でも力を競いだしました。

フランスは幕府に、イギリスは薩摩や長州などに接近します。

1858年に日米修好通商条約を結んでからは貿易面での問題も発生していました。

②混乱する幕政

日米和親条約をまとめた井伊直弼は、安政の大獄で反対派を叩き潰しにかかりました。

しかし、安政の大獄で恨みを買ったことで、井伊は桜田門外の変で暗殺されてしまいます。

これ以後、幕府の指導力は目に見えて低下しました。

③激化する尊王攘夷運動

幕末の貿易は物価の急上昇と金の海外流出をもたらしました。

庶民は生活苦となります。「こうなったのも、幕府が外国と貿易なんかするせいだ。今すぐ外国を追い出せ」「日本を天皇中心の国にするんだ」といった主張が支持を得ました。

ついには、公使館の焼打ちや外国人の殺害など過激な尊王攘夷運動までおきます。

④公武合体

尊皇攘夷運動が起きるような事態に幕府は、自分たちだけで対応するのには限界があると考えました。

そのため、天皇の力を借りて事態を乗り切ろうとしました公(天皇)と武(幕府)が協力する『公武合体』です

孝明天皇の妹、和宮と14代将軍徳川家茂を結婚させてきずなを深めようとしました。

⑤禁門の変

『公武合体』に危機感を持ったのが尊王攘夷派の長州藩です。

1863年の八月十八日の政変で京都を追われた長州藩は兵を京都に差し向けます。

この事件、禁門の変』は長州藩と薩摩・会津・桑名藩の戦いでした。

結局、長州藩はこの戦いに敗れてしまいます。

⑥2度の長州征討と将軍家茂の死

幕府は朝敵となった長州藩を討伐します。長州征討の開始です。

一度は幕府に従うと誓った長州藩でしたが、高杉晋作らが長州藩で政権をとると再び幕府に歯向かいます

再び長州を攻撃しますが、薩摩藩が出兵を拒否するなど1度目と違ってうまくいきません。

そのような中、将軍家茂が急死しますうやむやな形で第二次長州征討は幕を下ろしました

この段階で、幕府の権威はガタ落ちとなりました。

 

【徳川慶喜が大政奉還を行った理由】

徳川慶喜が大政奉還を行った大きな理由は、下記2つです。

1つは『徳川慶喜が征夷大将軍に就任した頃、武力による倒幕ムードが加速していたことが挙げられます。大老・井伊直弼の安政の大獄の弾圧などが理由で幕府に反発して倒幕の考えを示す者が増えていることを危惧して、平和的解決のために幕府を終わらそうとしたのです。

実際、大政奉還を行った同時期に天皇より薩摩藩と長州藩に討幕の密勅が下されており、大政奉還で幕府が終わったことでこの命令は延期となりました。

もう1つの理由は、『徳川慶喜は大政奉還を行っても政治の主導権を握れると考えたからです。

大政奉還によって政権が天皇に返上されるものの、当時天皇だった明治天皇はまだ若く、政治に慣れていない朝廷に対しても行政能力がないだろうと徳川慶喜は判断しました。このため、大政奉還で幕府を失っても徳川政権は存続できると考えたのです。事実、大政奉還後も徳川慶喜は条件付きながらも政治への関与を委任されています。

 

【幕末における大政奉還の流れ】

1862年

朝廷・幕府、公武合体を目指す

対立していた朝廷と幕府が政略婚を通じて結びつく。

朝廷と幕府が、互いに牽制するのが目的。

1863年

幕府・朝廷・薩摩藩を中心に駆け引きが続く

  • 幕府 :幕府中心の政治を目指す
  • 朝廷 :天皇中心の政治を目指す
  • 薩摩藩:天皇の下に幕府も含めた雄藩連合政権を目指す

 

1866年1月

薩長同盟が成立する

弱体化する幕府を見限った薩摩藩が、倒幕を目指す長州藩と同盟を結ぶ。薩摩藩は倒幕思想へ傾く。

1866年

第二次長州征討が起きる

倒幕を目指す長州藩に幕府が攻め込むが敗北。幕府の権威は失墜する。

1867年10月

幕府が、大政奉還を表明する。

「朝廷の下に幕府も含めた雄藩連合政権」を目指した土佐藩が力を失った幕府に大政奉還を提案。幕府はこれを受け入れ、雄藩連合政権へ動き出す。

公武合体、遂に完成する。

1867年12月

王政復古の大号令

朝廷に幕府の持っていた権力を返上。これにより江戸幕府は滅亡し、天皇を中心とする新政府が樹立。天皇の下、雄藩連合が成立する。

ただし、倒幕を目指していた長州・薩摩の陰謀により、徳川家(旧幕府勢力)は雄藩連合から排除される。

1868年

鳥羽・伏見の戦い

長州・薩摩の陰謀に15代将軍の徳川慶喜が激怒して、内乱が生じる。



【大政奉還の結末】

大政奉還の真の狙いは、幕府という形を捨てても依然として政治運営力を有する『慶喜を中心とした徳川家の勢力にあらためて政治運営を委任させる』というものでした。

天皇は平安時代末期から何百年にも渡って政治運営をしたことがありません。そのため、当時の朝廷に政治能力があるはずがなく、大政奉還も決して慶喜らが政治から一切手を引くという引退宣言ではなかったのです。

結果は慶喜や土佐藩の狙い通り、朝廷が条件付きという名目で慶喜の政治参画を引き続き承認し、征夷大将軍・内大臣という慶喜の官職も引き続き保有することを許可していました。慶喜はこうして徳川家中心の大名連合政権という政権構造を実現させようとしていたのです。

この政権構造では、天皇は象徴として置かれており、行政権はやはり徳川家、そして上院下院という形で議会がおこなわれるという三権分立の政治が期待されていました。朝廷が権力を持てない以上、徳川家が主導となるのは当然のことだったはずです。

しかし、これに納得がいかなかったのが薩長ら倒幕派で、それでは徳川家があたかも将軍であるように扱われることから根本的な改革は無理だと思い、旧幕府側の怒りを煽るように江戸で放火や強盗をおこなうようになります。

薩長や公家の岩倉具視らは、王政復古の大号令にも表れているように天皇が名実ともに国家元首であることが大前提で、尊皇思想の根底を受け継ぎながらも西洋諸国に倣った国づくりが目指していました。

こうして天皇を擁立する薩長派の新政府軍とあくまでも徳川家により国作りを目指した旧幕府軍とで鳥羽伏見の戦いの幕が開き、明治維新へと向かっていきます

【まとめ】

大政奉還は、結果として徳川慶喜や坂本龍馬のねらいとは異なり、戊辰戦争を引き起こしてしまいました。

しかし、大政奉還によって700年続いていた武家政治が終了し、明治新政府がスタートする大きなきっかけとなったことも確かです

幕末の大政奉還から明治政府の樹立までのストーリーには、様々な人物が登場し多くのエピソードがあるので、また機会あれば書いてみたいと思います。

 

【参考書籍】


明治維新の歴史

 

以上が本日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうございました!

 

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