【歴史】ビジネス教養 〈太閤検地〉

歴史

どうもanjinです!

今日は歴史テーマで『太閤検地』を取り上げたいと思います。豊臣秀吉が行った政策で多くの方が聞いたことがあると思います。具体的に何を行ったのか、基本部分より解説していきます。

【太閤検地とは】

太閤検地とは、一言で言えば「豊臣秀吉が行った全国規模の田畑の土地調査」のことです。

「天正の石直し」「文禄の検地」とも呼ばれています。1582(天正10)年の山崎の戦で勝利した直後から1598(慶長3)年の豊臣秀吉の死に至るまで続けられました。

検地』というのは、田んぼや畑の面積や収穫量をその土地の領主が調査をすることをいいます。

太閤』とは関白を辞めた人の尊称ですが、秀吉が好んで使っていたために秀吉の別称ともなりました。

太閤すなわち秀吉が行った検地だから、「太閤検地」なのです。

検地自体は、秀吉が行う前から各大名がそれぞれ行っていました。織田信長はもちろん、今川氏や武田氏、毛利氏なども行っています。しかし、太閤検地以前の検地はそれぞれが自分たちの基準や方法を用いて行っていました。

つまり、信長が行った検地と今川氏が行った検地では基準も方法も違っていた、ということです。同じく土地の面積を測り、収穫量を調査しているはずなのに、結果を見せ合ったところで基準が異なっては比べようがありません。

そこで秀吉は、太閤検地を全国で行うにあたり、統一のルールを決めました。それが、面積単位の統一、京枡の使用、土地単位の統一です。

【太閤検地の目的】

太閤検地の目的は、『全国各地の生産量を把握して効率よく年貢をとること』です。

戦国時代の課税には大きな問題がありました。

当時の農民らは、「惣村」という1つの集団で領主に年貢を納めていました。しかし、このシステムの中には、複数の領主に年貢を納めたり、有力農民に年貢を納めてから領主に年貢が納められたりといった複雑な権利関係ができあがっていたのです。

秀吉は昔から続いているこのような所有関係を整理し、一つの土地に一人の耕作者を定めました。農民と農耕地を結びつけることで、自由にその土地から離れられないようにしたのです。

権利関係がシンプルになると、それだけ年貢を効率良く取りやすくなりました。

 

【太閤検地の実施方法】

秀吉は征服した大名の土地に奉行を送り込んで検地をおこなわせました。秀吉の行った検地は、それまでの戦国大名が行っていた検地よりも厳密なものでした。

具体的な方法は下記になります。

  • 単位の統一
  • 京枡の使用
  • 石盛の制定
  • 石高で計算

単位の統一

一般的に単位は下記とされました。

  • 6尺3寸=1間(約191cm)
  • 1間四方=1歩
  • 30歩=1畝
  • 10畝=1反
  • 10反=1町

京枡の使用

次に、調査の結果をもとにして検地帳を作成。また、収穫量を正確に測るために共通基準として「京枡」を用いました。

石盛の制定

土地の面積や収穫高、等級、耕作人などを割り出します。土地は上・中・下・下々の4ランクに分けられました。これを石盛といいます。

石高で計算

正確に割り出した土地の生産高を「石高」といいます。

秀吉は検地帳に記された石高をもとに、各大名に軍役負担を命じます、そして秀吉は九戸政実の乱や朝鮮出兵などで諸大名に出兵を命じました。

さらに、秀吉は太閤検地に反対する者に厳罰を下すとも警告しました。その命令書の中で秀吉は「なぜ検地をするのかを、地方の武士や 百姓が承認するように説得せよ。もし検地に反対する者がいたら、一人残らずなで切りにせよ。」とまで命じています。

実際、東北地方で行われた太閤検地では、反対する人々が処罰されたり処刑されたりしました。

太閤検地は全国津々浦々まで徹底して実行され、秀吉に報告されたのです。

【太閤検地の意義】

太閤検地の意義は、主に下記3点になります。

①石高制の確立

京枡を使って基準を統一することは、全国の正確な米の生産高を割り出すことを可能にしました。その結果百姓は、石高に応じて年貢を納めることになりました。

一方、それまで使われていた貫高制はなくなります。貫高制は室町時代、それ以後は石高制と考えることができます。

大名は石高に応じて軍役を負担。これにより、豊臣政権は素早く大軍を動員するシステムを作ることができました。

②一地一作人の原則の確立

荘園公領制では、荘園領主である貴族や寺社や地頭の権利などが複雑に絡み合い、誰が税金を納めるべき人なのかわかりにくくなっていました。

太閤検地では土地を耕している人が土地の所有者とされました。

年貢は土地の所有者である耕作者(農民)が納めることとされました。これによって、複雑な荘園制はなくなり、土地の権利や年貢納入のしくみが単純化されました。

③兵農分離

兵農分離は太閤検地と並行して行われた『刀狩り』や『人払令(身分統制令)』などによって達成されました。

兵農分離とは、武士と農民を完全に分ける政策のことです。

戦国時代は、豊臣秀吉自身がそうであるように、農民と武士の区別はあいまいでした。戦争がないときは農民、戦争のときは足軽として戦国大名に従う者も大勢いたいのです。

農民は太閤検地で農地の所有権を認められ、年貢納入の義務を負いました。

その一方で、秀吉は刀狩りによって農民から武器を取り上げます。これにより、農民は土地と密接に結びつけられ年貢を納める存在とされたのです。



【差出検地と太閤検地の違い】

同じ検地でも信長が行った『指出検地』と、秀吉の行った『太閤検地』は違います。

指出検地と太閤検地の違いは下記になります。

信長が行った指出検地は、征服地の寺社や村などから土地の調査報告書を提出させるという形態でした。

土地面積や年貢高、耕作者などを記録した調査報告書を「指出(さしだし)」と呼んでいたから、指出検地と呼ばれています。

大名たちとの主従関係の確立を急ぐあまり、指出検地は十分な内容検討をされずに実施されてしまいました。指出検地には様々な欠陥があったと言われています。

【まとめ】

秀吉が行った太閤検地は、江戸時代を通じて土地支配の原則となりました。この検地は刀狩令や身分統制令と相まって、農民の一揆を防ぐ効果があったといえます。

荘園制では有力農民が力を強め武士化することもありましたが、秀吉は巧みな政策によってそのような事態をうまく防止したのです。

太閤検地は年貢を取りやすくするだけではなく、うまく人々を管理する仕組みでもありました。支配者にとっては都合の良い制度だったといえるでしょう。

秀吉のこれらの政策は江戸幕府にも引き継がれ、250年以上続く平和な時代の礎となりました。

 

【参考書籍】


太閤検地と徴租法

 

以上が本日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうごさいました!

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