【歴史】ビジネス教養 〈川中島の戦い〉武田VS上杉

どうもanjinです!

今日は歴史分野で『川中島戦い』を取り上げます。前回とりあげた「応仁の乱」後に戦国時代に突入と書きましたが、その戦国時代の有名な戦いになります。

皆さんも名前は知っていると思いますが、具体的なとこまでは知らない方もいると思うので、武田信玄と上杉謙信を深めながら書いていきます。

【川中島の戦いとは】

川中島の戦いとは、1553年~1564年におこなわれた甲斐の虎「武田信玄」と越後の風雲児「上杉謙信」との間に起きた戦いです。

〈概要〉

五回にも及ぶ合戦が繰り広げられ、合わせて川中島の戦いとされていますが、一般的には一番大きい戦となった第四次合戦を指すことが多いです。

元々は、甲斐の守護武田信玄が信濃攻略を目指して勢力を強める中、信濃の国衆の本領復帰のため、立ち上がった上杉謙信との間に起きた戦です。

武田家は、信濃を攻略の後は謙信の本拠地・越後攻略をも目指していました。

しかし、そこに謙信が立ちはだかり、川中島一体を武田領にする事はできたものの、越後侵略は諦めざるを得ませんでした。

〈具体的な登場人物〉

【武田軍】
武田信玄(武田晴信)
武田信繁
山本勘助
飯富虎昌
高坂昌信
真田幸隆(真田幸綱)等

【上杉軍】
上杉謙信(長尾景虎 / 上杉政虎)
直江実綱
柿崎景家
甘粕景持
村上義清等

場所:信濃国川中島(千曲川沿い)
交戦勢力:武田軍 VS. 上杉軍(長尾軍)
結果:決着つかず

兵力:
上杉軍:武田軍
第一次 8000人:10000人
第二次 8000人:12000人
第三次 10000人:23000人
第四次 13000人:20000人
第五次 不明

 

【川中島の戦いが起きた背景 】

当時は、戦国真っ只中で各地の大名達が領土拡大のため、戦を繰り広げていました。

甲斐統一を果たした武田家も例外ではなく、信濃へと領土拡大を進めるべく、進軍を繰り返していました。

着々と現地の国衆を撃破して、勢力を強める武田家を相手に最後まで抵抗したのが、村上義清です。

実際、武田信玄は上田原の戦いで義清に敗北をきしますが、その後、砥石城を超略すると後がない義清は信濃の背後にいる越後の上杉謙信を頼りました。

義清は、謙信を頼り越後に退きます。

謙信から援護を受けた義清は、再び出兵すると居城葛尾城の奪還に成功しました。

一度は、兵を退いた武田軍でしたが、再び進攻して来ると義清が立て籠る塩田城を攻め、義清は敢えなく越後へと逃げ帰るのでした。

そしてここで上杉謙信の登場です。

義清の本領復帰を掲げ出陣した謙信は、初めて信玄と対峙。結局どちらが勝ちと言う明確な勝敗は見出だせませんでしたが、これが第一次合戦となります。

そしてこの戦いを皮切りにこの両名は、10年にも及ぶ死闘を繰り広げる事となるのでした。

【川中島の戦いの内容】

川中島の戦いは1553年~1564年の間に5回も行われております。簡単に、戦の流れを説明します。

《第1回》

1553年、上杉謙信が村上義清の助けに応えて、信濃を攻めていき武田軍の守る城を次々に落としていきました。

川中島のあたりで武田信玄と上杉謙信は陣を構えました。

お互いの様子をうかがい、小競り合いをする程度で第1回目の戦は終わり、明確な決着はつきませんでした。

《第2回》

第1回目の戦の後、上杉謙信は将軍と謁見するために京へ上ります。

武田信玄は、「謙信が不在の今がチャンス」と考え、また信濃の川中島あたりに侵攻を開始しました。

越後に戻り、武田の動きを知った謙信は急いで川中島に出陣して、小競り合いが何ヶ月と続きました。

このままでは消耗するだけだと困った武田信玄が、今川義元に仲介を頼み和睦をもって戦を終わらす事になりました。

「信玄が奪った信濃の地を、元の武将達に返還してくれるなら和睦してもいい」と上杉謙信が条件を提示しました。

信玄は謙信の条件を受けて、戦は平和的に終結することとなりました。

《第3回》

1556年、「上杉謙信が寺にこもった」という噂を聞いた武田信玄が「今がチャンスと考え」また信濃の川中島あたりに侵攻を開始した。

武田信玄の動きを知った謙信は「和睦の約束をしたのに、何故!? 寺で信仰している場合ではない」と急いで川中島へ出陣。

第3回目の川中島の戦いで武田信玄は『動かざること山の如し』を発動。

上杉謙信はこの作戦にどうすることもできず、越後に兵を引き上げた。

《第4回》

1561年、上杉謙信が関東の北条氏と戦をしている間に、武田信玄が「今がチャンスと考え」信濃の川中島に城(海津城)を築いた。

これを聞いた謙信は川中島へ出陣、海津城を見渡せるように、妻女山に陣をはりました。

両者睨み合いが続く中、先に動いたのが武田信玄です。

キツツキ戦法という作戦を用いて、上杉軍に挟み撃ちの奇襲をかけるつもりだったのが、逆にその動きを察知した上杉軍が武田軍に奇襲をかけました。

最初は上杉軍が優位に立っていましたが、武田軍の別隊が現場に到着したことで立場が逆転、上杉軍はやむなく撤退することとなりました。

第4回目の川中島の戦いは、これまでにないほど両軍が激しくぶつかりあい、それぞれ被害も大きくでました。

両軍ボロボロとなり、どちらが勝ったとも負けたとも言えない戦となりました。

《第5回》

1564年、またまた川中島で謙信と信玄は対峙しました。しかし、これといった対決をすることなく終了しました。

上杉謙信と武田信玄は、これ以降戦うことがなくなりました。

【武田信玄について】

1521年、甲斐の大名「武田信虎」の嫡男として、武田信玄は生まれました。武田信虎の正室である「大井の方」は、戦が起こったときの武田謙信の避難先である要害山城にて、武田信玄を出産しています。

1541年、21歳となった武田信玄は大きな決断をしました。領民に高い税を課したり、家臣を平気で殺めたりと、悪政を敷いていた父・武田信虎を甲斐から追放したのです。これにより、武田信玄は若くして甲斐国の大名となります。

武田信玄は自国に攻めこんでくる隣国・信濃の大名たちと戦いました。なかでも手強かったのは「葛尾城」を拠点にする武将「村上義清」。その村上義清と対峙した「上田原の戦い」は、武田信玄の生涯で初となる負け戦となります。しかしそれから、村上義清をはじめとした信濃の大名たちと戦を繰り広げた末、1553年に村上義清を信濃から逃走させることに成功したのです。戦場で経験を重ねて猛将へと成長した武田信玄は、「甲斐の虎」と呼ばれるようになりました。

信濃から逃走した村上義清を庇護したのが、越後の大名「上杉謙信」です。「越後の龍」と呼ばれるほど武勇に長けた上杉謙信が武田信玄のライバルということは、皆さんご存知の通りです。二人は越後の川中島で5回も激突しました。

4回目の戦いではこんな逸話が生まれています。武田軍の本陣を見つけた上杉謙信は馬を駆り、突撃しました。そして、大将同士の一騎打ちが実現します。
渾身の一太刀を浴びせる上杉謙信と、それを軍配で受け止める武田信玄、その後、武田軍の兵がふたりの間に割って入ったことにより、一騎打ちの決着が付くことはありませんでした。
この一騎打ちのように、川中島で行なわれた5回の戦いでも武田軍と上杉軍の勝敗が付くことはありませんでした。

1572年、武田信玄は室町幕府の将軍「足利義昭」から、ある要請を受けました。それは尾張の武将・織田信長の討伐です。武田信玄は織田信長の本拠である美濃の岐阜城を目指して、甲斐から西へ進軍します。その道中で、織田信長と同盟を結ぶ徳川家康を討ち取るべく、徳川家康の領地である遠江に侵攻します。徳川家康を「三方ヶ原の戦い」で破り、三河にある敵の拠点・野田城を落とします。この勢いのまま織田信長を倒して天下統一を果たすのか、というところで運命の時が訪れました。

1573年、武田信玄は病により旅立ちました。享年53歳。武田信玄は「自分の死を3年間隠すように」という遺言を残しています。その理由は、自分が死去したことが広まり、甲斐が隣国の大名達に攻められることを恐れたからです。

死を間近にしても自国のことを案じるとは、その情の厚さには感服するしかありません。武田信玄は、人の上に立つのにふさわしい人物だったのでしょう。

【上杉謙信について】

上杉謙信は、1530年に越後国「春日山城」守護代「長尾為景」の四男として誕生。幼名は「虎千代」。名前の由来は、庚寅年生まれだったためと言われています。

当時は内乱が激しい時期で、父・長尾為景は1536年8月に、越後国内の国人領主「上条定憲」らに追い込まれる形で隠居します。家督は、虎千代の兄「長尾晴景」が継ぎ、虎千代は長尾為景から避けられるような形で城下にある「林泉寺」入門しました。

長尾為景が虎千代を疎ましく扱った理由については定かになっていませんが、虎千代が自分の子ではないと疑っていたからという説、気質が合わなかったからという説などがあります。

1543年、虎千代は元服して「長尾景虎」(ながおかげとら)と名乗るようになり、栃尾城に入城しました。長尾景虎の初陣は「栃尾城の戦い」であり、初陣は勝利で幕を下ろしました。

初陣以降も戦歴を重ね、長尾景虎は1550年に室町幕府13代将軍「足利義輝」の後ろ盾により、越後国主の地位を確立しました。1551年には、長く続いた内乱を収めたことで、22歳にして越後統一を果たしました。

翌年の1552年、相模国の「北条氏康」に攻め入られて越後国へ逃亡してきた関東管領「上杉憲政」を保護しました。しかし、これが原因か となり長尾景虎は北条氏康と敵対関係になります。

同年8月、長尾景虎は関東に派兵し、北条軍を上野国から撤退させることに成功しました。さらに、「武田晴信」(のちの武田信玄)に領国を追われた信濃守護「小笠原長時」を保護したことで、武田晴信とも敵対関係になります。

1553年、長尾景虎は勢力を拡大していた武田晴信率いる武田軍を討伐する決意を固め、「川中島の戦い」が勃発します。このあと12年も続く合戦の第一次にあたるこの戦いでは、長尾景虎自らが軍を率いて信濃国に出陣して、武田軍と攻防することになります。

この5回の「川中島の戦い」は上記で説明した通りです。この後、越相同盟を行ない、1570年に出家した時点から「上杉謙信」と名乗るようになりました。

以上が今日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうごさいました!

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