どうもanjinです!
今日は歴史分野の『大正デモクラシー』を書いていきます。
大正デモクラシーとは、政党政治が実現し、社会運動が活発であった時期として捉えられていますが、どのような経緯で発生し、どういう結果となったのか解説していきます。
【大正デモクラシーとは】
大正デモクラシーとは、1910年代から1920年代にかけての10年間行われた、『政治・社会・文化の各分野において民主主義的な運動のこと』を指します。
Democracy(デモクラシー)は訳すと民主主義と訳されます。
民主主義というのは、簡単にいうと「国民の声を政治に反映するようにしろ」という主張のことです。
日本では大正時代にこの民主主義の考え方がとても強くなったため、その当時の状況や雰囲気のことをさして「大正デモクラシー」といわれています。
実際、この時期には国会議事堂前で国民がデモを起こし、時の政権を倒すというできごとなども起こります。
大正デモクラシーは、1918年の米騒動を境に前半と後半に分かれます。
【大正デモクラシーが起きた背景】
1904年から1905年にかけて「日露戦争」が勃発しました。多くの戦死者が出たうえ、莫大な戦費を賄うための重税に人々は苦しみました。
しかも、日本は戦争には勝利したものの、「ポーツマス講和会議」の結果、賠償金を受け取ることができなかったのです。これが国民の不満に火をつけることとなります。
激高した人々は日比谷に集まり、内務大臣の官邸や、講和賛成を唱えていた国民新聞社を焼き討ちするという暴挙に出たのです。
さらに、彼らを阻止しようとした警察や軍隊と衝突しました。これを「日比谷焼き討ち事件」といいます。
この事件をきっかけに、民本主義、自由主義的な運動が広がっていくこととなり、大正デモクラシーの流れが生まれるのです。
その後1917年に、米の価格の急騰によって富山県を中心に始まった「米騒動」が全国に広がると寺内内閣は総辞職し、「平民宰相」と呼ばれた原敬が首相になります。従来の明治維新の立役者である薩長を中心とする藩閥政治に代わる、日本初の政党内閣の登場となりました。
【民本主義と天皇機関説について】
東京帝国大学(現在の東京大学)の教授「吉野作造」は、1914年に「民本主義」を発表しました。
「民本主義」には「政治は一部の特権階級のためにあるのではなく、国民みんなの幸福のためにある」「政策決定は民意に基づくべきだ」と書かれています。
「民本主義」の内容は現代の「民主主義」とほぼ同じで、現在では当然のように思えます。しかし、当時の状況を考えてみてください。選挙権は「直接国税15円以上納める満25歳以上の成年男子」にのみ限られ、該当者は日本の人口の1%程度しかいません。内閣も藩閥勢力や立憲政友会といった一部の人物が握るばかり。まったく国民が携われる政治ではなかったのです。
また、同大学の教授「美濃部達吉」は「天皇機関説」を唱えます。これは「国家は法律によって人格を与えられたものであり、国家の機関がその意思の決定を行う。日本に置いて意思決定の最高機関は天皇である」という主張です。実はこの主張は、従来の天皇の立場の考えを変えるものでした。
これまでは「天皇は日本神話の神々の子孫で、天皇の地位は神によって与えられた」とされてきました。ところが、「天皇機関説」では「天皇の地位は法律によって保証されたもの」ということになります。「天皇機関説」は、1935年に弾圧を受けるまで、一部をのぞいた人々に広く受け入れられました。
【米騒動とは】
1918年に起こった、米の価格の急騰にともなう暴動事件を「米騒動」といいます。
食が欧米化している現代においても、日本人の主食として米は重要な位置を占めていますが、当時は肉や魚など副菜の摂取が少なく、食生活は現代以上に米中心でした。
特に肉体労働者の場合、1日に約1升の米を消費していたといわれています。そのため、米の価格の高騰は家計を直接圧迫し、人々の生活は困窮することとなったのです。
1914年から1918年の間、米の価格はほぼ同じ値段で安定していました。しかし1918年の中頃から急激に上昇し、1月に100升で15円だった価格が7月には30円を超える異常事態となるのです。
当時の平均月収が約20円だったことを考えると、家計に与える影響はかなり大きなものだと想像できるでしょう。
米騒動の始まりは、富山県で起こりました。1918年7月上旬、約25人の女性が役所に押しかけて生活難を訴え、米の安売りを求めたのです。この動きに参加する人数は徐々に増えていきました。
さらに新聞などで報道されたことで、全国に波及。収束するまでの50日間で、最終的には数百万人規模になりました。打ちこわしや放火など過激化していきました。
【大正デモクラシーの結果】
大正時代を通じてさまざまな人々が状況を変えるために立ち上がり、多彩な運動を展開しました。そして一連の活動は第二次護憲運動をへて、政党政治の確立という形で結実することとなりました。
そのため大正デモクラシーは、日本における民主主義の萌芽として高く評価されています。
このように、大正デモクラシーを「国民の間における民主主義的傾向」として評価する声は、同時期の欧米諸国にも存在しました。
一方で政党政治が確立され、民意が政治の動向を左右するようになったことは、さまざな問題点も生み出しています。
昭和期になると、二大政党であった民政党と政友会は選挙に勝つことを至上命題に掲げ、互いに激しい批判を繰り返すようになりました。しかし政争が優先された結果、政治の停滞が生じてしまいます。
そのため民政党の浜口雄幸が以下のように憂慮しているように、やがて国民は政党政治に失望感を持つようになっていったのです。
そして1930年に生じた「昭和恐慌」が深刻化していく中、国民は政党ではなく、満州の権益拡大を目指した軍部を支持するようになりました。政党政治が十分な経済対策を打ち出せない一方で、軍部の行動を景気刺激策として歓迎する声が高まったためです。
つまり、人々が軍部を支持するようになった結果、民意が無視できなくなった政党は軍部の意向に沿うようになりました。また民意が中国への侵略を支持するようになれば、侵略も正当化されるようになっていったのです。
こうして民意が政党政治を離れ、軍部を支持するようになったことが、日本の軍国主義化を後押ししました。
【まとめ】
大正時代は、発展の明治時代と、戦前の昭和期に挟まれ印象の薄い時代という方ももしかしたら多いかもしれません。
大正デモクラシーは良くも悪くも民意が政治参加する状態を作り出し、民意が日本の動向を規定するようになった原因であると思います。
【参考書籍】
美濃部達吉と吉野作造―大正デモクラシーを導いた帝大教授 (日本史リブレット人)
以上が本日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうございます!
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