【歴史】ビジネス教養 〈長篠の戦い〉信長の天下統一を推し進めた戦い

歴史

どうもanjinです!

今日は歴史分野の『長篠の戦い』を取り上げます。前回は『桶狭間の戦い』を取り上げましたが、今回の『長篠の戦い』は、織田信長の天下統一を推し進めた戦いになります!

【長篠の戦いとは】

長篠の戦いとは、『1575年、三河国の長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍38000人と、武田勝頼軍15000人が激突した戦い』です。

厳密には、長篠城とその周辺で何度か戦いがあり、決戦地が長篠城の西側であった設楽原であったことから、『長篠設楽原の戦い』とも呼ばれます。

この戦いにおいて、織田信長は当時としては驚くべき数であった3000丁の鉄砲を用意、それによって戦国最強と謳われた騎馬武者たちを次々に倒していき、武田軍に勝利しました。

【長篠の戦いが起こった原因】

長篠の戦いが起こった原因は、徳川家康の領地だった三河北部の重要拠点である長篠城を武田勝頼が手に入れようとしたことです。

勝頼の父で、“甲斐の虎”と恐れられた最強の戦国武将武田信玄は、1573年三方原の戦いで徳川家康を撃破しました。

しかし、1573年に信玄は急死してしまい、勝頼が武田家を継ぐことになりました。

勝頼は信玄の志しを引き継ぎ、1574年に尾張・三河・遠江への侵攻の拠点となる信長の領地「美濃の明知城」、さらに父信玄でも攻め落とせなかった家康の領地「遠江の高天神城」、1575年には「三河の足助城」など、次々と攻め落としていきました。

連戦連勝で勢いに乗り、攻撃の手を緩めない勝頼が、次に狙いを定めたのが家康の領地「三河北部の重要拠点長篠城」でした。

武田軍は長篠城を手に入れることで、三河北部全域を家康から奪い取る足掛かりとなります。さらに三河東部、その隣にある遠江へと家康の領地に侵攻し、武田の支配を広げていくことも現実味を帯びてくるわけです。

そんな野望を抱きつつ、勝頼率いる武田軍は長篠城へと進軍し、城の周りを取り囲むと何度も攻撃を仕掛けました。

長篠城の城主奥平信昌は500名という少ない兵でありながら、なんとか耐え抜き、家康の助けを待ちました。

奥平信昌から救援要請を受けた家康は、同盟を結んでいた織田信長にも出兵を依頼し、織田徳川連合軍として長篠の戦いへ臨みました。

【長篠の戦いの勝因】

長篠の戦いで織田信長が武田勝頼に勝った要因は、主に下記3つあります。

・鉄砲3000丁と馬防柵を使った織田軍の鉄壁の防御

馬防柵という一見木でできたもろい柵のようで、実は堀を掘って馬が転落し突破しにくい防衛線を築くことで、武田騎馬隊に対抗する作戦を信長はとっていました。

それほど動かずとも遠くの敵を討ち取れる鉄砲の特性を知り尽くしていた信長は、機動力が最大の武器の武田騎馬隊に対し、『待ち』に特化した陣形と装備で対抗することで、武田軍の多くを討ち取ることができました。

・武田軍中央部の予想外の崩壊

元々数で劣っていた武田軍は『翼包囲』という戦術をこの戦いでとっています。

これは両端の軍を中央よりやや先に配置し、敵軍が中央の軍を迎え撃っている間に、両端の軍隊のどちらか、あるいは両方を敵軍の背後に回り込ませて挟み撃ちにする戦術です。

この戦術は古今東西、数で劣る軍が敵軍を破った戦術として数知れず、今日でも陸軍の戦術として使われております。

長篠の戦においても武田軍は、織田軍が中央軍を迎え撃っている間に両端の軍を背後に回り込ませる作戦でしたが、誤算だったのが両端の敵陣突破の前に起きた中央部の崩壊。

武田軍中央部は勝頼の叔父であった武田信廉、従兄弟の穴山伸君といった親戚筋で主に構成されていたのですが、もともと勝頼と仲が悪く、指揮官の指示を無視した敵前逃亡を行い、両端の軍が取り残されて大損害となりました。

特に両端の軍に名将たちが重点的に置かれており、彼らが多く戦死したこともまた、のちの武田家の衰退につながっていくのです。

・勝頼の3つの誤算

①予想以上に長篠城が堅固で、信長本体が到着する前に落とせなかった事

②信長が銃撃戦に特化した『待ち』の戦術をとっているにもかかわらず、手をこまねいていると考えて軍のほとんどを設楽原に向けてしまった事。

③酒井忠次を中心とした奇襲攻撃により、長篠城攻略の要であった鳶が須山を奪われてしまった事。

 

【鉄砲隊について】

この長篠の戦いは、日本で初めて本格的に鉄砲が使われた合戦として知られており、『3,000挺の鉄砲を使った“三段撃ち”』が有名です。

当時の鉄砲は一度撃ったら弾を込め直さなければならず、連発することができないとう欠点がありました。

その欠点を補うために、一発撃った兵は最後尾に下がって弾を込め、その間に次の列の者が撃つというように時間をかせいだことで、織田軍は絶え間なく射撃することができたのです。

当時の火縄銃は、一回発砲すると再び火薬を詰め直して縄に火をつけてと、一発一発に間合いができてしまうため、実戦で主力に使う大名はまだほとんどいなかったそうです。

しかし、織田信長は「どうすればこの火縄銃を戦いで有効に使えるようになるのか」と考えました。

考え出した戦法は、1,000人ずつ三列に布陣し、一列目が射撃をしたら三列目まで下がって次の発砲の準備をする。その間に二列目の部隊が前に出て弾を撃つ。その次は三列目の部隊が…という具合に、1,000発にも及ぶ一斉射撃が間断なく行えるような工夫をしたのです。

武田の騎馬隊に対して信長がとった作戦は、騎兵の突進を馬防柵でおさえ、動きが止まったところを次々と入れ替わる「三段撃ち」により鉄砲を撃つというものでした。

【英雄 鳥居強右衛門とは】

徳川家の家臣だった鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という男がいました。詳しい経歴はわかっていませんが、長篠の戦いが起こった当時は30代後半だったといわれています。

彼こそが、武田軍の包囲をかいくぐって信長へ援軍を要請しに赴いた張本人なのです。

当時の長篠城は、武田軍に包囲されながらもなんとか防衛を続けていました。長期戦に持ち込もうとしていましたが、兵糧庫を焼失してしまい、あと数日以内に落城してしまう状況に陥ります。

岡崎城にいる家康に援軍の要請をしなければなりません。武田軍の目をかいくぐって城を抜け出すのは困難に思われましたが、この危険な役目を自ら買ってでたのが鳥居でした。

夜中に下水口から川を泳いで脱出し、翌日の午後には家康のもとへ辿りつきます。実はこの時、家康はすでに長篠城の現状を把握しており、信長に援軍を送ってもらう手はずを整えていました。

これを知った鳥居は、一刻も早く仲間に伝えようとすぐさま長篠城へ引き返します。しかし、行きと同じ経路で戻ろうとしたところ、武田軍に見つかり捕らえられてしまいました。

鳥居は城の前で磔にされ、「援軍は来ない、諦めて城を明け渡せ」と仲間に伝えるよう命令されます。彼はこれに従うふりをし、城前に立ちました。そして、「あと2、3日で援軍が来る。それまで持ちこたえよ」と叫んだのです。

その後鳥居は武田軍によってすぐさま殺されてしまいましたが、彼の報せを聞いた城内の者たちは奮起し、援軍が到着するまで長篠城を守りとおすことに成功したのです。

 

【現在における長篠の戦いとは】

・3,000丁の鉄砲について

長篠の戦いの定説は、武田軍の騎馬隊を織田徳川連合軍が3,000丁の鉄砲で撃退したといわれてきましたが、最近この説が怪しくなってきました。

実はこの内容が書かれていたのは、長篠の戦いから約25年後、江戸時代初期に小瀬甫庵の著書『信長記』です。

長篠の戦いと同時期に書かれた記録ではないことから信憑性に乏しいと考えられるようになりました。

現在は、“そこそこ信用できるのでは”と考えられている信長の家臣が書いた『信長公記』と、現地での発掘調査の結果を下に、新たな解釈がなされるようになっています。

戦場となった長篠の設楽原の発掘調査では、なぜか鉄砲の弾がほとんど出土しておらず、本当に3,000丁もの鉄砲が使われたのか疑問が持たれています。

・武田軍の騎馬隊について

“武田の赤備え”と呼ばれた武田軍の騎馬隊に対しても、実際馬に乗って戦う騎兵は、武田軍全体の1割程度だったようで、騎馬隊と呼べるほどの規模も迫力もなかったと考えられています。

その当時の馬といえば、120cmほどの在来種の馬でした。その馬を想像すると、騎馬隊といっても戦闘能力はないように見えます。

 

【参考書籍】


長篠の戦い (歴史新書y)

【まとめ】

長らく猛威をふるってきた武田家は、天下統一を目指す信長にとって脅威となる存在でした。しかし長篠の戦いで勝頼を破ったことで、信長はまた一歩、天下人へのコマを進めたのです。

一方この戦いに大敗した武田家は、徐々に衰退して滅亡へと進んでいきます。信玄時代から仕えていた重臣たちの意見を聞き入れていたら、また違った結果になっていたかもしれません。

長篠の戦いは、信長をさらに天下人へと押し上げた反面、武田家滅亡のきっかけを作った戦いといえるでしょう。

本日のテーマは以上になります。ご覧頂き、ありがとうごさいました!

コメント

タイトルとURLをコピーしました