【歴史】ビジネス教養 〈参勤交代〉

歴史

どうもanjinです!

今日は歴史分野の『参勤交代』について書きます。江戸時代に制度化された慣習で最近では参勤交代の映画も上映されたので、皆さんも言葉は聞いたことあるかと思います。具体的に何をしたのか、深掘りして解説します。

【参勤交代とは】

参勤交代は、『各藩の藩主を毎年4月に自領から江戸へ、または江戸から自領へと1年交代で定期的に行き来させると言う、江戸幕府が定めた制度です。江戸に行くことを「参勤」、国許に戻ることを「交代」と言います。

江戸幕府が成立すると、原則として1万石以上の大名は、妻(正室)と子(男子であれば跡継ぎ)と妻子を常時、江戸の藩邸に、事実上の人質として住まわせていました。
そして、藩主は自国で1年間過ごすして政務を行い、次の1年間は江戸の藩邸で過ごして、自国の政務は城代家老に任せていました。

鎌倉時代の武士は「いざ鎌倉」と言い、鎌倉への往来をしたことが原型と言えます。

戦国時代に豊臣秀吉が天下を取り大阪城に入ると、従属する大名の屋敷を大阪城下に置き、大名の妻や子を住まわせています。
これも事実上の人質と言う事ですが、江戸時代になって徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的に、1635年、徳川家光により制度化されたのが、参勤交代となります。

【参勤交代の目的】

参勤交代の目的は、下記2つといわれています。

  1. 徳川幕府と諸大名との絶対的主従関係を明確にするための軍事儀礼
  2. 大名を定期的に江戸に出仕させることで各藩に財政的負担を与え、妻子を人質に取り、幕府(徳川家)に謀反を起こさせないようにすること

しかし、国元から江戸までの旅費だけでなく、江戸の滞在費まで大名に負担させていたため、各藩に財政的負担を掛けることとなりました

また、人質をも取る形となり、諸藩の軍事力を低下させる役割を果たしたと言われていますが、『これはあくまでも副次的な結果に過ぎないのでは?』というのが現在の研究者たちの考えみたいです。

そもそも藩財政が破綻して軍役が不可能となっては本末転倒です。

「大名行列は身分相応に行うべき。」と参勤交代での大名行列の数を減らすよう幕府側が大名側へ通達を出していることからも、当初幕府にはその意図はなかったのではないかということが読み取れます。

そのため、幕府が参勤交代という制度を定めた最大の目的は、1年ごとに壮大な軍事パレードの形をとる大名行列で江戸まで出向かせ、将軍に忠誠を誓うための挨拶をさせることで、大名たちに自分の立場を思い知らせるためのものだったという説が今の主流となっています。



【参勤交代のルートと費用】

《参勤交代のルート》

参勤交代のルートは全国津々浦々に藩があったため色々異なっており、そのかかる日数も江戸に近い藩なら1日2日、対して江戸から離れている薩摩藩や熊本藩なら2ヶ月以上かかってしまうことがありました。

今回は加賀藩を例にして見ていきます。

加賀藩はまず北国街道と呼ばれる街道を通り、越後(新潟)、信濃(長野)を経由して中山道に入り江戸に向かいます。このルートだったら金沢から江戸まで14日かかります。

参勤交代は4月に行くことになっていますが、もしかしたら非常事態が起こる可能性はありますし、しかも他の大名行列と出会ったら挨拶しなければいけなかったためなるべくスムーズに行けるように半年前から入念にルートをチェックして参勤交代に望んでいました。

江戸まで14日は藩の中では平均的な日数ですが、このルートが非常に難所揃いだったのです。まず、この当時半分の川には橋がかかっていません。そのため人足と呼ばれる人を使って川渡りをしなければいけません。

さらに川が洪水になると他のルートを通るのは幕府から禁止されているのでもうどうしようもない。足止めを食らってお金ばかり使ってしまうことになってしまいます。

さらに北国街道の途中にある親不知は波を鎮めなければ通れないような狭い道でしたので人を雇って波を無理矢理鎮め通っていました。

《参勤交代の費用》

参勤交代の目的のひとつとして「経済力を削ぐ」というものがあると先ほど書いた。では、いったい1回の参勤交代ではどのくらいの費用がかかるのだろうか。

参勤交代の費用は大人数で長距離を移動するので、とにかくお金がかかりました。

江戸からの距離により異なりますが、参勤交代の費用は、藩収入の5%〜20%、江戸藩邸の費用を含めれば50%〜75%が当てられていました

『御道中日記』という参勤交代の移動日数や費用について記されている記録によると、

  • 東北地方の仙台藩(現在の宮城県) ⇨ 伊達家:3000〜5000両
  • 北陸地方の加賀藩(現在の石川県) ⇨ 前田家:5333両
  • 山陰地方の鳥取藩(現在の鳥取県) ⇨ 池田家:5500両
  • 九州地方の薩摩藩(現在の鹿児島県)⇨ 島津家:17000両

だったそうです。

現在のお金の価値(1両=10万円として)に換算すると一回の参勤交代で、

  • 仙台藩:約3億〜5億円
  • 加賀藩:5億3千万円
  • 鳥取藩:5億5千万円
  • 薩摩藩:17億円

も使っていたことになります。

参勤交代の費用が諸大名にかなりの負担を強いていたことがわかりますね。

結果として、この参勤交代の制度が各藩の財力を低下させ、安泰な江戸時代になったことは歴史が証明しています。

 

【参勤交代の影響】

家光が制度化した後、参勤交代によって大名たちは1年置きに江戸に出仕しなければならなくなりました。そのため江戸に上るときと領地に帰るときに共揃えをしなければならず、莫大な出費をすることになったのです。この出費は各藩の財政を圧迫し、国力を低下させ結果的に徳川家の勢力が長く続くことにつながりました。また大名の嫡子と正妻は江戸の大名屋敷にいなければならないなど、“人質”を確保するための制度という側面もあったのです。加えて、幕府にとって要注意である外様大名は江戸から遠くに領地を持つことが多かったため、駕籠や行列を用意して行う参勤交代は大きな負担になりました。このため、幕府の権威は大きく上がり、制度化を決めた家光の目論み通りの結果になったのでした。

【参勤交代の終了】

参勤交代が決められてから時が経過し、1853年には、浦賀にペリーが来航し、日本に対して開国を迫るようになっていき、幕府内では大混乱状態となっていました。

幕府内ではこれからは各藩が軍事力を上げていって外国に立ち向かっていこうという意見が出始め、その軍事力を上げづらくしている原因である参勤交代を緩めようとする動きが出てきます。

しかし、幕府にとったら参勤交代を緩めたことによって歯向かう軍事力をつけるのは幕府にとったら危機的状態です。

そのため参勤交代の制度をそのままにしたかったのですが、結局文久の改革の時に参勤交代の頻度を3年に一回、さらに江戸の滞在日数も100日に減らし、さらに人質として江戸にいた大名の妻子についても国元に帰ることを許すことにしました

しかし、第二次長州征伐に幕府軍が敗北したことによって参勤交代をしない藩もちらほら出始めてしまい、そのまま幕府が消滅した大政奉還と共に参勤交代も廃止されてしまいました。

 

【まとめ】

参勤交代は、江戸時代に幕府が行った代表的制度としてよく知られていますが、詳しく調べれば調べるほど大名たちに財政的、体力的負担を強いていた事がわかります。

幕府に力があった時は良かったですが、幕末に近づくにつれて幕府の弱体化が進み、統率力が低下していきました。

そうなると、本来幕藩体制を強化するための象徴だった参勤交代制度が、積年の反幕思想の底流になっていってしまった可能性があります。

徳川幕府が200年続いたのも参勤交代という制度があったから実現したことですが、徳川幕府が倒されたのも参勤交代での苦しみから来る積年の想いからだったのかも知れません。

 

【参考映画】


超高速!参勤交代


超高速!参勤交代 リターンズ

 

【参考書籍】


超高速! 参勤交代 (講談社文庫)

 

以上が本日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうございました!

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