どうもanjinです!
今日は歴史テーマとなり、建武の新政を取り上げたいと思います。名前は聞いたことあるけど何だったけ?という方もいると思いますので、基本的な部分を書きたいと思います。
【建武の新政とは】
「建武の新政」とは、鎌倉幕府が滅亡した1333年から室町幕府が開かれる1336年まで後醍醐天皇による天皇中心の政治のことを指します。
建武の新政という名前の由来は、1334年に定められた「建武」という年号です。後醍醐天皇は、武家による政治を辞めて公家中心の政治(親政)を目的とします。かつて天皇政治の理想ともいわれた醍醐天皇と村上天皇らによる古代政治を手本にしたとされています。
しかし、その内容は時代錯誤で武士の不満を招き公家からも支援されず、足利尊氏の反発により、わずか3年で崩壊しました。
【建武の新政の内容について】
建武の新政の主な内容は、下記4つになります。
- 大内裏の造営
- 乾坤通宝の発行の計画
- 中央組織の整備
- 地方組織の整備
《大内裏の造営》
後醍醐天皇は権威を示すために大内裏(皇居)の造営を計画します。そのために必要な費用を集めるために、二十分の一税など新税や新しい紙幣や貨幣の発行を計画します。
《乾坤通宝の発行計画》
乾坤通宝(けんこんつうほう)とは、簡単に説明すると幻の通貨のことです。建武の新政では新しい通貨の発行を計画したそうです。1334年頃に「乾坤通宝」発行詔書が発行されます。
《中央組織の整備》
建武の新政では、中央機関の整備が行われます。公家と武家が共に協力することを建前として、記録所、恩賞方、雑訴決断所、武者所が設置されました。
記録所:重要事項を決める最高決定機関
恩賞方:武士への恩賞(褒美)を取扱う機関
武者所:京都の警備をする機関
雑訴決断所:所領の事務や裁判を担う機関
《地方組織の整備》
建武の新政では、地方組織の整備も行われます。
- 国司と守護
- 鎌倉将軍府
- 陸奥将軍府
建武の新政では、国司の方が権限を上として、全国に国司と守護を設置します。鎌倉幕府では、国司の実態が失われていましたが、後醍醐天皇は国司を地方支配組織の要としたのです。
鎌倉将軍府として、後醍醐天皇の息子である成良親王と足利尊氏の弟の足利直義を派遣します。
陸奥将軍府としては、後醍醐天皇の息子である義良親王と北畠親房の長男の北畠顕家を派遣します。
【建武の新政が崩壊した理由】
なぜ、建武の新政は、わずか3年で崩壊したのでしょうか?
建武の新政が崩壊した理由は、武士から大きな不満が出たからです。
そもそも、鎌倉幕府を倒す際に足利尊氏ら武家が後醍醐天皇に協力したのは鎌倉幕府に不満があったからです。後醍醐天皇を支持していたわけではありません。そして、この建武の新政は、公家を重用し、恩賞も武士よりも公家の方が多いなどの差が出てしまったことが武士から不満を出すことになりました。
以上が今日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうごさいました!
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