どうもanjinです!
今日は歴史分野の戦国時代における『桶狭間の戦い』を取り上げます。前回は『川中島の戦い』を取り上げました。今回は戦国時代で誰もが一度は耳にしている有名な戦いになります。基本的な部分から掘り下げていきます!
【桶狭間の戦いとは】
桶狭間の戦いとは、1560年に桶狭間で織田信長と今川義元の間で行われた戦いのことです。
駿河、遠江、三河の3国(今の静岡県と愛知県東部)を治めていた有力な戦国大名である今川義元を、尾張国(今の愛知県西部)を治めていた信長が破った事は、当時の大名や武将たちに様々な影響を与えました。
この年の5月12日、今川義元は織田信長が治める尾張国への侵攻を開始し、織田方の砦を次々と落としました。一方の織田方は出撃するか、それとも本拠地である清州城で籠城をするかで意見がまとまらない状態でした。しかしその後7日後、信長は突如清州城から出撃して義元の本陣へ襲いかかります。
この時は大雨が降っていて、今川方の本陣は不安定だったと言われています。そして義元の本陣を見つけた織田勢は何度も攻撃を仕掛け、ついに義元を討ち取りました。大将が死んだ事から戦意を喪失した今川方を深追いする事なく、信長は早々に清州城へ引き上げたと言われています。
【桶狭間の戦いが起きた原因】
なぜ桶狭間の戦いが起こったのか。
それを知るためには、国の構造を知る必要があります。まず、駿河の大名だった今川義元は、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と同盟関係にありました。これを「甲・相・駿三国同盟」と呼びます。さらに、北には越後の上杉謙信がいました。
今川義元が「尾張を攻める」きっかけになったのは、織田信長の父である織田信秀の死です。これにより家督を受け継いだ信長ですが、家督を受け継いだ当時はまだ名もなき一国の領主でした。当時の今川義元にとっては「赤子の手をひねるようなもの」と考えていたのでしょう。今川義元はじわじわと尾張に近づいていきました。
そして、1560年(永禄3年)5月19日、ついに尾張を手に入れるため今川義元が動いたのです。これが、のちに桶狭間の戦いと呼ばれる歴史的合戦となります。
【織田信長と今川義元について】
《織田信長》
まず桶狭間の戦いが起こる前までの織田信長について紹介します。
安土桃山時代という一つの時代を作り、日本全国を統一することを目指していた信長ですが、産まれたのは現在の愛知県西部にあたる尾張という小さな国でした。
幼いころの信長は周囲の大人を困らせる言動が目立ち、武道や銃に興味を持っていました。
父親が亡くなった後、信長のそれまでの行いや周囲との対立から後を継ぐ際に争いが起こり、信長は弟を破って父親の後を継ぎます。
さらに尾張国内はいくつかの武将が対立しており、桶狭間の戦いが起こったころは、信長はまだ完全には尾張を統一できていませんでした。
〔織田信長のプロフィール〕
- 1534年(天分3年)5月12日 尾張の国(現在の愛知県)で織田信秀の長男として生まれる
- 1549年(天分18年)16歳 濃姫(帰蝶)と結婚
- 1551年(天分20年)18歳 父、信秀の死により織田家を継ぐ
- 1559年(永禄2年)25歳 尾張国を統一
- 1560年(永禄3年)26歳 桶狭間の戦いで今川義元を討つ
- 1562年(永禄5年)28歳 三河の徳川家康と組む(清洲同盟)
- 1567年(永禄10年)33歳 斎藤道三の孫竜興を破り、稲葉山城を岐阜城と改め本拠地とする(美濃制圧)
- 1568年(永禄11年)34歳 足利義昭の上洛を助けて室町幕府15代将軍にする
- 1570年(元亀元年)36歳 姉川の戦いで近江の浅井・越前の朝倉を倒す
- 1571年(元亀2年)37歳 比叡山延暦寺焼き討ち(当時,比叡山延暦寺は巨大勢力をもっており僧侶は私欲をむさぼっていた、また浅井・朝倉軍の兵士をかくまったとされていた)
- 1573年(天正元年)39歳 将軍足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼす
- 1575年(天正3年)41歳 長篠の戦で武田勝頼を倒す
- 1576年(天正4年)42歳 近江(現在の滋賀県)琵琶湖畔に安土城を建てる
- 1580年(天正7年)46歳 石山本願寺を屈服させる(石山戦争終結)
- 1582年(天正10年)49歳 甲斐の武田を滅ぼし中部地方の大部分を支配、さらに中国地方に足を延ばそうとしたとき、家臣の明智光秀の謀反により、本願寺を襲撃され自害する
《今川義元》
今川義元は現在の静岡県にあたる駿河という国で産まれました。
5男として産まれたため、家を継ぐ予定はなく僧侶として修業していましたが兄たちが亡くなったことで今川家を継ぐことになりました。
このとき弟と後継者をめぐる争いが起こり、勝利しています。
織田信長も今川義元も兄弟と戦っていますが、2人が生まれた時代はそのように親子、兄弟であっても争い、領地を拡大していくことを武将たちは目指していました。
父親の後を継いだ義元は領地を拡大するために、近くの強い武将と手を組みます。
そして周辺の土地を攻撃し、駿河、遠江、三河(現在の愛知県東部)を領地として加えます。
このとき三河から人質となったのが、後の徳川家康です。
〔今川義元のプロフィール〕
- 1519年(永正16年) 今川氏親の5男として駿河(現在の静岡)で生まれる。
- 1523年(大永3年)4歳 善得寺に預けられ、太源雪斎のもとで学ぶ。
- 1536年(天文5年)17歳 兄氏輝、彦五郎が亡くなったため、異母兄の玄広恵探と家督を争い(花倉の乱)今川家の当主となる。
- 1537年(天文6年)18歳 武田信虎の娘と結婚し、武田氏と甲駿同盟を結ぶ。北条氏と対立。
- 1545年(天文14年)26歳 北条氏との争いに勝利し北条家と和解する(河東一乱)。
- 1548年(天文17年)29歳 織田軍との三河をめぐった争い(小豆坂の戦い)に勝利。
- 1549年(天文18年)30歳 駿河・遠江・三河を制圧。
- 1553年(天文22年)34歳 父・今川氏親が定めた分国法「今川仮名目録」を改定。
- 1554年(天文23年)35歳
武田信玄、北条氏康との間で甲相駿三国同盟を結ぶ。 - 1560年(永禄3年)桶狭間の戦い。桶狭間山で休憩していたところを織田信長によって襲撃され織田家家臣・毛利新助に討ち取られる。(享年42歳)
【信長の勝因は】
この戦いにおける今川方の兵力は、25,000から45,000ほどであり、それに対して織田方は、多くても5,000だったと言われています。
では、桶狭間の戦いにおける信長の勝因は一体何だったのでしょうか。
よく挙げられるのが、悪天候によって今川方の本陣が乱れていた事や、信長があらかじめ今川義元の本陣が置かれていた場所を把握していたという点が挙げられます。桶狭間の戦いが行われた場所では視界がハッキリしない程の大雨が降っており、この混乱を利用して織田方が一気に義元の周辺に攻撃を仕掛けた結果、ついに大将首を討ち取ったという事がよく語られています。
今までよく言われる説では、「桶狭間の戦いは、大雨のなかを織田信長が、今川義元の本隊に奇襲をかけて勝利した、奇襲戦だった」といわれていました。
しかし最近の研究では、「桶狭間の戦い」は「奇襲戦」ではなく、正面から堂々とぶつかった戦いだったとされています。
織田信長の公式記録「信長公記」によれば、「織田信長」は正面から今川軍と激突したというのです。
「信長公記」によると織田信長は、大雨のなかで、「桶狭間」という谷間の細い道に陣取っていた今川軍に突っ込みました。すると、隊列すらも整えていなかった今川軍は、その攻撃に反応できず、大混乱しました。
スキをみせた今川軍に信長がたたみかけ、総大将「今川義元」が討ち取られてしまったのです。
【桶狭間の戦いの歴史的意義】
桶狭間の戦いの原因、結果を上記で説明してきましたが、桶狭間の戦いが戦国史に与えた影響は大きい。
義元と有力部将を失った今川家を息子の氏真は維持することができず、桶狭間の戦いから8年後に、戦国大名としての今川家は滅んでしまう。
代わって武田氏が駿河を領有した。また桶狭間の敗北で今川の勢力が尾張、三河から撤退する中、松平元康は岡崎城に入り、独立大名となっりました。そして織田信長と清須同盟を結び、三河平定を進めていくことになります。
一方、桶狭間で勝利した信長は、東からの最大の脅威が消滅したことに加え、松平元康と同盟を結ぶことで、東を警戒する必要がなくなりました。その分、北方の美濃攻略に全力を注ぐことができるようになり、「天下布武」に向けての新たなステージが始まることになります。
以上が本日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうございました!
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