【歴史】ビジネス教養 〈大阪の陣〉

歴史

どうもanjinです!

今日は歴史分野の『大阪の陣』を説明します。数回にわたり戦国時代を書いてきましたが、この『大阪の陣』をもって戦国時代が完全に終わり、徳川江戸幕府の時代に突入していきます。

【大阪の陣とは】

大阪の陣とは、江戸に幕府を開いた徳川家康が「天下統一最後の総仕上げ」として、幕府にとって最も脅威だった豊臣家を攻め滅ぼしました戦いです。

また、大阪の陣とは、大坂城で行われた2つの戦いの総称です。それぞれを「大坂冬の陣(1614年11〜12月)」「大坂夏の陣(1615年4〜5月)」と呼んでいます。

【大阪の陣が起きた背景】

〈豊臣秀吉の死後〉

豊臣秀吉の死後、五大老のひとりであった徳川家康が力を強めていきます。それを認めなかった石田三成らが兵を挙げた関ヶ原の戦いにおいて、徳川方が勝利します。その結果、さらに家康がその力を強め、実権を握るようになりました。

1603年には家康が征夷大将軍に就任します。豊臣側は、秀吉の息子である秀頼が成人した後、関白となり天下を治めるものと信じていました。ですが、1605年、家康は息子である徳川秀忠に将軍職を譲ります。これによって、天下は徳川家のもの、と公に示す形となりました。

1611年~13年にかけて、加藤清正らをはじめとする豊臣家の古くからの重臣たちが相次いで逝去しました。これまで江戸幕府と豊臣家のとりなしをおこなってきた彼らがいなくなったことで、豊臣家は孤立していきます。

一方の家康は、在京の大名、東北・関東の大名、そして西国の大名から、幕府の命令に背かないと誓わせ、足場を固めていきました。

〈方広寺鐘銘事件〉

1614年、豊臣家が再建をしていた方広寺の大仏殿がほぼ完成するという頃に、その釣鐘に書かれた文字が『国家安康』『君臣豊楽』と書かれており、家康を呪っている内容だと問題視をされます。大仏殿再建の取り仕切りをおこなっていた片桐且元が家康へ申し開きをおこなおうとしますが、面会できません。混乱する豊臣方に対し、家康から豊臣・徳川両家の親和を示す方策を出すよう要求が出されます。

且元は、「秀頼の江戸参勤」「淀殿を人質として江戸に」「国替えをして大坂城退去」という案を豊臣家に進言しますが、実質的に主導権を握っていた淀殿がこれに激怒しました。裏切りを疑われた且元は大坂城を退去します。また、且元の屋敷は打ち壊されてしまいました。

家康は、幕府に断りなく、豊臣が且元に対して攻めるという内戦を勝手におこなったこと、そして且元が豊臣家だけでなく徳川家の家臣でもあったことから、それを勝手に罰したことを理由に挙兵します。こうして大坂冬の陣が始まります。

 

【大阪の陣に参戦した武将】

大坂の陣に参陣した武将は、両軍合計数十万人ともいわれています。攻城軍は全国の大名たちで、守城軍は秀頼の近臣と浪人たちです。

攻城軍=徳川勢守城軍=豊臣勢とにわけて、主な武将を紹介します。

攻城郡=徳川勢

徳川秀忠

家康の子で、大坂夏の陣の時、征夷大将軍でした。もっとも、秀忠の役割は、徳川氏の年中行事を主催することであり、関東を中心とした徳川氏直轄領の支配でした。豊臣方との交渉を担ったのは家康です。大坂夏の陣では、家康とともに伏見城を出陣し、岡山に本陣を置きます。天王寺・岡山の戦いでは、大坂方の必死の反抗によって本陣へ迫られるほどでしたが、これを退けました。

伊達政宗

政宗は秀吉死後、五郎八姫を徳川家康の六男・松平忠輝に嫁がせ、徳川家と姻戚関係となりました。関ヶ原の戦いでは家康に味方して上杉景勝と戦い、戦後に加増されています。

冬の陣では嫡男・秀宗とともに出陣し、家康本陣の近く・大阪城の南に位置する大和口方面軍として布陣しました。
夏の陣では道明寺の戦いに参戦すると、先に到着していた豊臣方の後藤又兵衛隊と衝突し、銃撃の末に又兵衛を討ち取る功をあげた。なお、遅れて到着した真田幸村らとも交戦しています。
翌日の天王寺の戦いにも参加し、トータルで首級500余を挙げたといわれています。

松平忠直

家康の次男・結城秀康の嫡子。慶長12年(1607年)、父・秀康の死後にわずか13歳で家督を相続しました。

初陣となった冬の陣では真田丸から見て右前方に布陣。真田丸の攻防戦で井伊直孝隊と功を競う形で真田丸へ突撃しましたが、待ち構えていた豊臣方の一斉射撃を受けて多くの死者を出す羽目となりました。

夏の陣でもはじめ、味方の苦戦中に傍観したことで家康から叱責されるなど精彩を欠いていました。しかし、天王寺の戦いでは幸村を討ち取るなど、徳川方で最大の首級を挙げる活躍をし、大阪城一番乗りも果たしている。

井伊直孝

徳川譜代重臣・井伊直政の子。慶長7年(1602年)の父・直政の死後、徳川秀忠の側近として仕えます。

冬の陣では井伊の赤備えの部隊で臨み、松平忠直隊の隣に布陣しました。真田丸の攻防戦で松平忠直隊とともに真田丸へ突撃したが、こちらも多くの死傷者をだしています。

夏の陣では河内方面の先鋒として出陣し、若江の戦いで木村重成を討ち取っています。その後、大坂城の山里郭に篭っていた淀殿・秀頼母子を包囲して銃撃し、自害に追い込むという大功を挙げました。

前田利常

長兄・前田利長隠居後、前田家を継いで加賀藩2代目藩主となりました。

冬の陣では徳川軍では最大の3万の軍勢を率い、真田丸の前に布陣し、井伊・松平軍と同様に我先にと真田丸へ突撃した結果、多数の死傷者を出してしまいました。
しかし、夏の陣では大野治房の軍勢を撃破して大阪城内へ攻め込むと、松平忠直に次いで3200の首級をあげるという大功をあげています。

 

守城軍=豊臣勢

豊臣秀頼

豊臣勢の総大将ですが、母親である淀殿の意向に大きく左右されたと言われています。夏の陣では度重なる出馬を求められるも戦場に出る事はありませんでした。追い詰められた際、大坂城に火を放った裏切り者を城から突き落としたという彼の行動が、近年発見されたオランダ人の手記により明らかになっています。

大野治長

豊臣家存続のために腐心し、家康との講和にも尽力した豊臣家の重臣です。しかし、その努力は秀頼の正室、千姫を救うのみに留まりました。5月8日に、秀頼らとともに、大坂城で果てました。後世には豊臣家を滅ぼした張本人のようにいわれますが、実際は豊臣家のためなら何でもするという忠臣中の忠臣だったのです。

真田幸村(真田信繁)

関ヶ原の戦いで家康と敵対したことで九度山に幽閉されていました。しかし、徳川と豊臣の大決戦を前に、秀頼の誘いに応じて九度山を脱出して大阪城へ入城しました。

大阪冬の陣では大阪城の出丸・「真田丸」を守備し、その前方にいた徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直らの軍を圧倒。その幸村の戦いの凄まじさに敵方の家康から寝返りのオファーがとどく程でありました

夏の陣では後がなくなった豊臣の軍勢は徳川の大軍の中へとびこんでいきました。幸村は敵中突破して後方の家康本陣にまで突入、 その凄まじさは家康に自害を覚悟させるほどのものであったといわれています。

最期は戦い疲れて休息していたところ、松平忠直隊の西尾宗次に発見されて「儂の首を手柄にされよ」との言葉を残して討ち取られました。

後藤又兵衛

黒田家に仕えた百戦錬磨の強者。

黒田家の家臣として関ヶ原合戦に至るまで多くの軍功をあげた武人であるが、慶長11年(1606年)には黒田長政と確執によって黒田家を出奔します。その後は長政にことごとく仕官の邪魔をされました。

そうして浪人を余儀なくされ、大阪の陣の際に豊臣の将に加わったのは生活のためにやむを得なかったといわれています。豊臣方ではその器量に一目置かれる存在となり、主力として戦いました

冬の陣では鴫野・今福方面に出陣して佐竹義宣や上杉景勝勢と交戦します。夏の陣の “道明寺の戦い”では先鋒を務めました。しかし、後続に薄田兼相や真田幸村らの隊が続くはずであったが、到着が遅れたために伊達政宗の隊など徳川の大軍相手に孤軍奮闘します。
最期は突撃を敢行して乱戦の中で壮絶な討ち死にとなりました。

毛利勝永

元々”森”の姓であった父が秀吉による九州平定(1587年)で功を立て、”毛利”の姓を与えられました。

関ヶ原では父とともに石田三成方に味方し、戦後は改易となって父共々、土佐の国主・山内一豊に預けられました。かねてから親交のあった山内家では厚遇されていたといわれています。

大阪の陣を前に豊臣家からの誘いの密書が届くと、山内家の監視のある中で脱出して大阪入城を果たしました。
冬の陣では大阪城の西北隅を守備。夏の陣では道明寺の戦いで後続隊として参加します。そして、天王寺口の戦いでは幸村同様に最前線に陣を敷いて敵中突破して家康本陣に突入する凄まじい活躍をみせたが、幸村の隊が壊滅して窮地に陥ったためにやむなく大阪城へ撤収しました。

最期は豊臣秀頼の介錯を行った後、子の毛利勝家、弟の山内勘解由吉近とともに切腹して果てました。

長宗我部盛親

四国の雄・長宗我部元親の四男であったが、豊臣政権の九州征伐で元親の嫡男・信親が戦死した際、元親によって長宗我部家の後継者に指名されました。元親死後には家督を継いで土佐の国主となりました。

関ヶ原合戦の後には、西軍に属した事に加え、家督争いが尾を引いて三兄の津野親忠を殺害したことで家康の怒りをかって改易されています。ここに大名家としての長宗我部家は滅びて家臣らは散り散りとなりましたが、盛親は浪人となって寺子屋の師匠をして生計を立てていたといわれます。
この間もお家再興をすべく、徳川幕府の閣僚に向けて再仕活動をしていましたが、豊臣と徳川が対立すると、幕府の京都所司代・板倉勝重の監視下に置かれるようになりました。

大阪入城の際には旧臣ら1000人ほどの従者を引き連れていたといわれます。冬の陣では真田丸後方の大阪城内に陣を構え、突撃してきた井伊直孝・松平忠直軍に応戦しました。また、夏の陣では”八尾・若江の戦い”で藤堂高虎隊と激突して奮戦していたが、井伊直孝らの援軍が駆けつけてきたために大阪城へやむなく撤退しました。

大阪城陥落にともなって逃亡したが、まもなく徳川の兵に捕えられて最期は斬首されました。

明石全登

キリシタン軍団を編成。

豊臣政権五大老の一人・宇喜多秀家の家臣であり、宇喜多家のお家騒動で重臣らが出奔したのに伴い、家中を取り仕切りました。
関ヶ原では秀家とともに西軍につきましたが、東軍が勝利したことで戦後、宇喜多家は改易されて主君・秀家は死罪を免れたものの、八丈島へ流されました。

一方で全登はキリシタンであったことから、同じくキリシタンで黒田官兵衛の弟・黒田直之を頼り、しばらくは黒田家の庇護下に置かれました。しかし、慶長14年(1609年)に黒田直之が死没すると黒田家を退去しています。

大阪の陣では豊臣方の招きに応じて4000もの兵を引き連れて大阪入城を果たしたといわれています。
キリシタン軍団を編成して戦いに臨み、夏の陣では道明寺の戦いに後続隊として参加、次いで天王寺・岡山の戦いでは別働隊として 家康本陣への突入を狙っていましたが、豊臣方が壊滅したことを知り、徳川の包囲網を突破して戦場を離脱しました。その後の消息は不明です。



【大阪冬の陣】

《豊臣方の兵集め》

1614年11月3日、豊臣方は関係のあった大名や浪人たちに声をかけて戦の準備を進めていきます。しかし、諸大名では応じる者がおらず、真田信繁(幸村)を始めとする関ヶ原の合戦後に浪人となっていた者など約10万人が大坂城へ集結しました

《真田丸の戦い》

その頃、家康は駿府を出発。大名たちを動員して、約20万の兵を出兵させました。

12月19日に戦いが始まり、いくつかの砦が陥落した豊臣方は、当初からの作戦通り大坂城での籠城を始めます。徳川方の大軍に包囲されますが、真田信繁によって築かれた出城・真田丸における戦いが1月3日から始まると、豊臣方が徳川軍を退けます

その後、徳川方は立て直し、土塁を築いて自分たちの被害を減らしつつ、大坂城に対してイギリスから購入した大砲やオランダ製大砲で打ち込み続けました。また同時に、豊臣方各将に対して調略もおこなっています。

《講和成立へ》

徐々に疲れの溜まっていく豊臣方でしたが、そんななか本丸への砲撃で淀殿の侍女8名が亡くなります。これを見た淀殿が12月16日に和議に応じることを決めました

18日に徳川方の京極忠高の陣において交渉がおこなわれ、19日に合意、20日に誓書が交わされました。これによって、徳川方は砲撃を停止させます。

この時の講和条件として、大坂城の本丸を残して二ノ丸、三の丸を破壊し、さらに堀の埋め立てが決められました。また、それと引き換えに、豊臣家の本領安堵と浪人衆に対して不問とすることが認められました。

【講和成立後の状況】

《6つの和平条約》

豊臣家と徳川家が和平条約を結ぶ際、下記の条件が出されました。

  • 豊臣の牢人衆たちは不問にする
  • 豊臣秀頼の本領を安堵とする
  • 豊臣秀頼の身の安全を保証する
  • 淀殿の人質としての江戸在住は不要とする
  • 大阪城を開城すれば望む国を与える
  • 大阪城惣構・二の丸・三の丸の破却と堀の埋立てをする

その最中、豊臣家では牢人達の処遇に関する問題が発生します。大阪冬の陣では大坂城に多くの牢人がいましたが、牢人は仕官にもなれないため大阪を出ても生活できず、そのため大坂城に住み続けていました。豊臣秀頼は大坂城で戦った牢人を見捨てられず、金銀の支給や新たな牢人の受け入れも認めていたのです。

一方、大阪で騒ぎを起こす牢人達を認めるつもりがない徳川家康、そこで徳川家康は豊臣秀頼に対して牢人の解雇・大坂城からの退去を要求します。これに反対する豊臣家、この交渉決裂が原因によって両者は再び衝突、今度こそ決着をつけるべく1615年に大阪夏の陣が起こりました

《堀の埋め立ての効果》

大阪夏の陣の勃発はこのうちの牢人の件の衝突が原因ですが、6つ目の条件となる大阪城の堀の埋め立ては大阪夏の陣に大きな影響を与えることになりました。堀の埋め立ては和平が結ばれた後に早速工事が始まり、冬の間に早くもその工事は完了します。

堀を埋め立てたことで大阪城は大きく変化、防御機能を失ったことから豊臣軍は大阪冬の陣のような戦略はとれなくなってしまったのです。このため、大阪夏の陣では豊臣軍は城外で戦うしか術がなく、兵の数で不利な豊臣軍が徳川軍に勝利するのは難しくなるのでした



【大阪夏の陣】

追い詰められた豊臣軍

1615年、大阪冬の陣の再戦とも言える大阪夏の陣が勃発します。豊臣軍は武将・大野治房が大和群山城を落とすとその付近の村に放火、徳川軍の基地までも焼き討ちしました。さらに、一揆勢を味方にして紀伊半島方面へと突き進むものの、徳川軍の浅野長晟の軍勢に返り討ちにされて敗退します。

さらに道明寺周辺で起こった道明寺の戦いでも豊臣軍は敗北、寄せ集めの兵だったことから充分な連携が行われず、また濃霧の影響で戦いが不利になったともされており、ここでもまた豊臣軍の主力の武将が戦死しました。城外でしか戦えない豊臣軍は、こうして徳川軍に追い詰められていきます。

窮地に立たされた豊臣軍が勝利するには、もはや敵の大将である徳川家康を討つしかありません。そこで大阪冬の陣の英雄、真田幸村が徳川軍の本陣である徳川家康に向かって突撃していきます。この時、徳川家康は切腹を覚悟したほど追い詰められたとされており、徳川軍の体制を崩すことに成功しました

豊臣軍の滅亡

真田幸村は何度も徳川軍の本陣に突撃を繰り返すものの、味方が崩れてしまったことから豊臣軍は再び窮地に陥ります。もはや反撃するのは難しく、勝利を諦めた豊臣軍の戦意は喪失、中には逃亡や裏切りを行う者まで出てしまい、軍の統率は完全に取れなくなってしまいました

善戦していた真田幸村もついに疲労、満身創痍の果てに討ち取られてしまいます。これで豊臣軍の勝機はなくなり、豊臣秀頼の妻は夫の助命を懇願しますがそれも受け入れられず、豊臣秀頼は側室・淀殿と共に自害、こうして豊臣家は完全に滅亡しました

2大権力として共存していた豊臣家と徳川家、豊臣家が滅びたことから徳川家康はこれで天下統一を果たしたことになります。ちなみに豊臣秀頼には豊臣国松というまだ小さな息子がいましたが、大阪夏の陣の後に捉えられた末に処刑されました。ここから、徳川家による江戸幕府の時代が続いていくのです

【まとめ】

大坂の陣に勝利したことで、徳川家に刃向かうことができる大名がいなくなり、100年以上続いた戦国時代は終わりを迎えました。

それを表す出来事に1615年元号が慶長から元和に変わっています。

この元和は正式にいうと元和偃武(げんなえんぶ)といい、世の中が平和になったという意味です。

その名の通り、これから先日本は200年ほど『江戸時代』という平穏な時代を迎えることになるのです

 

【参考書籍】


大坂の陣 豊臣方人物事典

以上が本日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうごさいました!

 

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