どうもanjinです!
今日は歴史テーマにおいて、室町時代に起きた『応仁の乱』を取り上げたいと思います。名前は聞いたことがある人多いと思いますが、一体どういう乱だったの?という方もいると思うので、基本的な部分を書きたいと思います。
【応仁の乱とは】
応仁の乱とは、足利将軍家、管領畠山、斯波両氏の相続問題に細川勝元、山名宗全の権力闘争が重なり多くの守護が1467年から1477年まで東西に別れて戦った大乱です。戦いは地方まで及び、将軍・守護の地位が低下して、戦国時代を招くきっかけとなりました。
室町時代は天皇家もいますが、実質的には足利将軍家を頂点とする武家社会です。このトップである将軍の下に、管領があり、その下に四職という地位がありました。
この『将軍→管領→四職』の地位が武家社会の上位にあり、ここの権力争いや家督争い、将軍継嗣問題が応仁の乱が勃発する原因となります。
【応仁の乱の内容】
応仁の乱は、足利義尚・畠山義就・山名宗全の「西軍」、足利義視・畠山政長・細川勝元の「東軍」に分かれています。
東西陣営纏めると、下記になります。
(東軍)細川勝元 対 (西軍)山名宗全
(東軍)畠山政長 対 (西軍)畠山義就
(東軍)斯波義敏 対 (西軍)斯波義廉
(東軍)土岐政康 対 (西軍)土岐成頼
争いのきっかけは、足利家のお世継ぎ問題ですが、争いの中心は山名宗全と細川勝元です。足利家や守護大名がそれぞれ争うだけであれば、応仁の乱は、約11年もの争いにならなかったと考えられています。最初は将軍家が後ろ盾についた東軍が優勢でしたが、新たに守護大名・大内政弘が西軍に参戦したことで、さらに争いが激化したそうです。
幕府内での権力争いですので、主に、京都を舞台の合戦となりましたが、地方の大名も、東軍とされる細川家、西軍とされる山名家のどちらかに味方したため、戦火は地方にも広がり、全国のあちこちで合戦が勃発することなりました。
【応仁の乱の結果】
応仁の乱は、1477年に終幕を迎えます。日野富子の働きかけにより義尚と義視が和睦したことで、決着がつかずに終わりを迎えました。勝敗の結果としては「引き分け」といえるのです。
この時代の争いといえば、勝者が領地を手に入れたり、地位が上がったりするものです。しかし、応仁の乱では大きな得をしたものは現れなかったといえます。加えて、応仁の乱の影響で室町幕府の信頼は地に落ちてしまいます。これにより長きに渡る戦国時代が幕を開け、武田信玄・上杉謙信といった武将たちが頭角を現してきます。
このように、応仁の乱は当時の支配者層が、各々の権力拡大を計って展開した、私欲に満たされた内乱だったと言えます。
政治の変革を目指したわけでもなく、大義のない戦いを11年にも渡って継続し、各地を荒廃させたことから、室町幕府も朝廷や民衆から統治者にふさわしくないと徐々にみなされるようになっていきました。
各地に富裕な商人が登場し、農村の発展と合わせて民間の力が高まっています。商人や農村から生じる力を束ねた者が新たな時代の主役となり、戦国大名として地位を獲得して守護大名を駆逐することになったのです。
『応仁の乱』により統治の混迷して社会の下層の興隆が起きるようになり、室町時代が終焉し、戦国時代が幕をあけるようになりました。
以上が本日のテーマになります。ご覧頂き、ありがとうごさいました!
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